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立川陸軍飛行場と日本・アジア №174 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

    立川から満州へ交替部隊が出発

             近現代史研究家  楢崎茂彌
 
    青年団幹事、補充兵に編入され凶行に及ぶ
174-1.jpg 前回、都立二中で行われた連合青年団のことを書きましたが、その集会に参加した南多摩郡小宮村の青年団幹事吉澤伊賀(21)が、家宝である日本刀を持ちだし、家族4名に切りつけて重傷を負わせる事件が起こりました。新聞は“補充兵に編入され 発狂して暴行”と見出しをつけて報じています。記事は“同人は本年、適齢検査で歩兵に合格した所が補充兵に編入されたのを苦に発狂したもので、青年団の幹事をつとめ、また青訓所で質実温厚な模範青年であった”と書いています(「東京日日新聞・府下版」1933.7.15)この記事にある“適齢検査とは、徴兵検査のことです。
  模範青年を追い詰めたとされる“補充兵”とはどのようなものなのでしょう。
  兵役法(1927年制定)は次のように定めています。

  第一条 帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス
  第二条 兵役ハ之ヲ常備兵役、後備兵役、補充兵役及国民兵役ニ分ツ
   2 常備兵役ハ之ヲ現役及予備役ニ、補充兵役ハ之ヲ第一補充兵役及第二補充兵役ニ、国民兵役ハ之ヲ第一国民兵役及第二国民兵役ニ分ツ
 第八条 第一補充兵役ハ陸軍ニ在リテハ十二年四月、海軍ニ在リテハ一年トシ現役ニ適スル者ニ シテ其ノ年所要ノ現役兵員ニ超過スル者ノ中所要ノ人員之ニ服ス
   2 第二補充兵役ハ十七年四月トシ現役ニ適スル者ノ中現役兵又ハ第一補充兵ニ徴集セラレザル者及海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者之ニ服ス但シ海軍ノ第一補充兵役ヲ終リタル者ニ在リテハ十一年四月トス

  満州事変から日中戦争に向かうこの時期には、まだ“徴兵検査で現役に適する者”の一部を徴集していたので、現役兵にならない者が出たわけです。彼等が補充兵になるのです。それでは、現役兵となるか補充兵になるかはどのようにして決められたのでしょうか。
  兵役法施行規則によれば、全国の市町村長は、戸籍をもとに毎年1月1日時点の徴兵適齢者などの名簿にあたる“壮丁人員表”を作成します。人員表作成を担当したのが兵事係の官吏で、1月10日までに、都道府県の兵事官に提出します。都道府県は、この人員表を各連隊区司令部に提出します。市の場合は連隊区司令部に直接提出しました。連隊区司令部は、これらをまとめて“連隊区壮丁人員表”を作成し、全国に14あった師団の師管(師団の事務部門)に提出されます。師団長はこの人員表により“師管壮丁人員表”を作成し陸軍大臣に提出、陸軍大臣が各師管毎の徴集人員を割り当て、それを受けた連隊が複数の市町村からなる徴募区に徴収人数を割り当ててきます。こうして徴集人数が決まると、徴兵検査で甲種・乙種合格となったもののうち、現役と第一補充兵の入隊順序を決める抽籤が行われます。くじ引きは、市町村長が選定した抽籤代理人が抽選会場にでかけて行われました。抽籤にもれた者は第八条2に定められた第二補充兵とされ、戦時にのみ徴集されることになります。記事だけでは、吉澤伊賀が第一か第二かはわかりませんが、現役になれなかったことは彼にはショックだったようです。
  補充兵とされた青年の気持ちは、張作霖爆殺事件をきっけとして辞任した田中義一首相が、陸軍大臣時代に書いた「未入営補充兵のしるべ」(新月社・1917年刊)を読むと理解できるような気がします。“合格した者の中でも、甲種と乙種は体の最も丈夫なもので、それが現役兵になり、人数が余った残りは補充兵となるのであるが、その順番は抽籤(くじ)で決められるのであるから、時によると残念ながら、甲種のものでも現役兵になれないものがあり、乙種でも補充兵になれないものあるのである。……そうして見ると、徴兵検査に合格して兵役につき現役として入営するものは云うまでもなく、補充兵になったものも、まず体も人格も善いものの証拠であって、男子として此上もない立派な名誉なことなのである。”

  飛行第五連隊の満州派遣軍の交替部隊、立川駅から現地へ
174-2.jpg 昭和8(1933)年7月28日、満州(現・中国東北地方)に向けて、立川から交替部隊が出発しました。「東京日日新聞・府下版」(1933.7.28)は“府下○○隊の伊藤丑治大尉以下、下士○○名兵○○○名の満州派遣交替兵は、いよいよ今廿八日…”と書いています。こう伏せ字だらけでは、どの部隊のことかが分かりませんね。新聞には第四中隊前に整列する派遣部隊の写真が載り“満州空の守りに選ばれた勇士達の面上には包みきれない喜びがあふれ”と書いているので、第五連隊の交替部隊であることが分かります。
174-3.jpg 前日、派遣される下士兵は残留兵と別れの宴を開き冷酒、赤飯、尾頭付きに舌鼓をうちました。翌7月28日午前10時10分、出発する下士兵は第四中隊前に集合し、田中連隊長から“近衛師団長の激励の辞をよく守って○○兵の本領を発揮すべし”という訓示を受け、派遣部隊の指揮官伊藤丑治大尉が答辞を述べたのち、4列縦隊で営門を出て立川駅に向かいます。右の黒白写真は営門に向かう派遣部隊の隊列、カラー写真はほぼ同じ場所の現在の様子です。
  例によって空には航空技術部の九二式偵察機・戦闘機、日本飛行学校機などが舞い、立川駅では小学生・二中生、立川高等女生、在郷軍人会員、青年団員などが手に持った日の丸の小旗を振り、万歳を叫んで部隊を見送ります。4年後の昭和12(1937)年には日中戦争が始まります。万歳で送り出された交替部隊の下士兵たちは帰ることが出来るのでしょうか。
 
  満州派遣部隊、3年ぶりに原隊に復帰
174-4.jpg 昭和6(1931)年9月18日、関東軍が柳条湖事件を起こし満州事変が始まると、二月後の11月15日には飛行第五連隊が満州に派兵されました(連載NO138)。その部隊の指揮官立松少佐は、2年後の昭和8(1933)年4月、一足お先に立川に戻っています(連載NO170)。その4ヶ月後の8月1日午前7時5分、帰還部隊は立川駅に到着、3000人を越える町民、小中高女生、青年団、在郷軍人などに迎えられました。中町通りを通り第五連隊に向かう兵達の背嚢には中国兵の鉄かぶとや青竜刀、部隊の旗などが戦利品としてのせられています。青竜刀などは、後に立川高等尋常小学校(今の立川1小)で戦意高揚の174-5-2.jpg目的で披露されました。右の黒白写真は、中町通りを第五連隊に向かう帰還兵の隊列、カラー写真は同じ場所の現在の様子です。突き当たりが立川駅北口で、中町通りは“北口大通り”と名称が変わっています。黒白写真に大きな看板が写っている菊屋さんは、北口大通りの東側に移転して現在も営業を続けています(写真下)。
 今回帰還したのは、前年11月に満期を迎えた3年兵のみなので、翌日には除隊となり、兵はそれぞれの故郷に帰ることになります。将校集会場で行われた祝賀会で、田中第五連隊長は“今回の事変で空軍の活躍は花々しかっただけに事故もあったが、わが隊だけはこれという損傷もなかった。これこそ、地上勤務員として重任を果たした諸君の力である”と讃え174-6.jpgます。地上勤務員とは、整備兵のことなので、空中勤務者にあたる操縦将校や機上整備兵は帰還していないことが分ります。辻連隊長を始めとする派遣軍の一部は関東軍に編入されたことは連載NO151に書いた通りです。
 8月2日、除隊式が行われ、立川町と石川島飛行機製作所からの記念品をもらうと、除隊兵は中隊長・幹部などに挨拶して営門をあとにします。今回は“これといった損傷もなく”帰還しましたが、他国に攻め込んで戦争をしているのだから、いつまでも無事に帰還できるわけがありません。


写真1番目  被害者吉澤伊佐美氏  「東京日日新聞・府下版」1933.7.15
写真2番目  隊伍堂々営門を出づ  「東京日日新聞・府下版」1933.7.29
写真3番目  高島屋の北側     筆者撮影     2019.2.27
写真4番目  中町通を原隊へ進む凱旋兵「東京日日新聞・府下版」1933.8.2
写真5番目  北口大通り     筆者撮影      2019.2.27
写真6番目  菊屋ビル     筆者撮影       2019.2.27


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