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医史跡を巡る旅 №53 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め・日本最初の腑分け」

             保健衛生監視員  小川 優

平成7年(1995年)に発行された「近代解剖教育記念切手」です。
明治26年(1893年)に日本解剖学会が創立され、近代解剖教育体制が整備されて100年を迎えたことを記念して発行されました。

「近代解剖教育記念切手」

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近代解剖教育記念切手

医学の勉強の基本は、人間の体の仕組みを知ることから始まります。
体の構造、そして健康な状態がどうなっているかを知らないと、どのような状態が異常なのか、つまり病気なのかの判断もつかず、さらにいかにすればそれが治せるか、ということがわかりません。医学を学ぶ者は必ず、解剖学に触れざるを得ないのは、こうした理由からです。

西洋医学が導入されるまで、つまり東洋医学の時代には、観念的な陰陽五行説に基づく中国医学や、実証・経験主義的な考えで、実際に人間に試して体に良いもの、悪いものを区別し、治療法を探していく古方派などがありました。どちらも体の内部の構造や、各部の働きについて重視することがなかったために解剖知識は必要なく、さらには死生観や、仏教的考えから遺体に畏怖の念があり、江戸時代の後期まで医学教育としての解剖は行われてきませんでした。
日本における解剖は、西洋から近代医学が伝えられるようになり、もたらされた貴重な医学書の内容を確認することから始まったといえます。しかしながら、「腑分け」に対するアレルギーは強く、多くの人に受け入れられるまでに、極めて難路であったことは容易に想像されます。

記録に残り、社会的な意味でのエポックメーキングとなった日本最初の解剖は、宝暦4年(1754年)に山脇東洋によって行われました。

「日本近代医学発祥地」

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日本近代医学発祥地~京都市中京区六角通

実践主義の古方(古医方)の医師であった山脇東洋は、自らの診療を通じ、古来伝えられている五臓六腑説に疑問を抱いていました。人の内臓によく似ていると言われていたカワウソを解剖したり、ドイツ生まれの解剖学者ヘスリンギウス(ヴェスリングとも)が記し、オランダ語でも刊行されていた解剖書を入手して知識を深めていましたが、真偽を確かめることができず、疑問は増えるばかりでした。
そんな時東洋は、六角獄舎に繋がれた重罪人5人が処刑されることを知ります。京都所司代に若狭藩医であった小杉玄適らと連名で、刑死人の遺体の下げ渡しと、解剖許可を誓願し、これが認められることとなります。

「山脇東洋観臓地」

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山脇東洋観臓地~京都市中京区六角通

時に宝暦四年(1754年)閏二月七日、西土手刑場で5人の刑は執行され、首は晒されます。うち一人の体は六角獄舎に戻され、筵の上で屠者により開腹されました。その罪人の名は屈嘉(くつよし)であったと伝えられます。
解剖が行われた六角獄舎跡には、「日本近代医学発祥地」と「山脇東洋観臓地」の碑が建てられています。

「山脇社中解剖供養碑」

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山脇社中解剖供養碑~京都市中京区新京極 誓願寺墓地

東洋は、罪人といえどその身を以て新たな知見ををもたらしてくれた屈嘉に感謝し、その魂を慰めるために六角獄舎から少し離れたところにある誓願寺で、法要を営みます。

「山脇東洋解剖碑所在墓地碑」

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山脇東洋解剖碑所在墓地碑~京都市中京区新京極 誓願寺墓地

賑やかな新京極の路地裏に誓願寺はあり、屈嘉と、その後東洋一門によって解剖された刑死人14人を供養するために建立された碑が今でも残っています。ただし、碑自体は風雨による痛みがひどいため、平成6年に建て直されたものです。供養碑に刻まれた戒名のうち、「利剣夢覚信士」が屈嘉です。

誓願寺墓地には、山脇東洋夫妻の墓もあります。

「山脇東洋夫妻の墓」

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山脇東洋夫妻の墓~京都市中京区新京極 誓願寺墓地

ただし、ここには東洋夫妻は葬られていません。
解剖5年後、東洋はその結果を「蔵志」にまとめます。内容的にはごく簡単なものですが、初めて日本人が記したものとしては、正確で画期的なものでした。刊行まで5年を要していますが、やはり解剖という行為に対しての、周囲からの批判を考えてのことでした。

「山脇東洋墓」

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山脇東洋墓~京都市伏見区深草 真宗院墓地

山脇東洋、本名は尚徳。ほかに移山、玄飛、道作を名乗る。宝永2年(1705年)、禁裏の侍医を務める山脇家門下の清水立安を父とし、山脇玄脩のもとで学び、その後養子となります。古医方の後藤艮山にも師事することで実証主義に触れたことが、解剖の必要性を感じ、実行する原動力になったと考えられます。ちなみに解剖に立ち会った時、東洋は49歳でありました。
東洋は宝暦12年、往診先でふるまわれた食事にあたり、58歳でその生涯を閉じます。亡骸は山脇家の菩提寺である、伏見区深草の真宗院に葬られました。


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