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梟翁夜話(きょうおうやわ) №32 [雑木林の四季]

「QOLを目指す膝栗毛」

                翻訳家  島村泰治
                                                      
・痛む膝を抱えて
平成を閉じる年が明けて、やがてひと月が往く。改元よ新暦よと巷が騒ぐなか、私はやおら膝を抱えて考え込む。ほかでもない、ほどなく私はこの膝を入れ替えることになるのだ。生まれ育った膝に異物を入れて、父母に受けた身体髪膚を心ならずも毀傷しようという、思うだにおぞましいことを思い立ったのである。人工膝関節手術、いわゆる人工膝の埋め込みだ。

これは一か八かの賭けだ。賭け事を嫌う思いが足を引っ張るのだが、賭けるのは金じゃない、自分のQuority of life と周囲への思いやりなら大いに賭け甲斐があろうというものではないか。

・Aさんのこと
「島村さん、そりゃやったほうがいいですよ。ぜひやってください。また一緒にやりましょう。」
一昨年のある日、尾山台の喫茶店でAさんがそう云った。他の方たちもそうだそうだと後押しをする。私はその気になった。膝奴、こいつのためにあたら元気印が動きを封じられている。直立屈伸なら手の平さえも軽々と床につくほど柔軟な腰が、膝奴のために持ち腐れだ。なんたる不条理。私はみんなの意見を聞きながら、手術をやらにゃならんの気概に燃えた。

Aさんは、私より一二年上の女性で卓球の仲間だ。またやりましょうとは卓球のこと、居並ぶ連中も同じ上野毛チームの面々だ。Aさんは両膝が人工関節である。独特のくせ玉を操って白球を打ちまくっている。手術以前と以後の彼女を見知っている私は、手術後のさり気ない膝捌きを思い出して、まずは人工膝を抱えた状況を生々しく聞いてみたかったのだ。
「お勧めします。迷わずにされるほうがいい。私が生き証人です。」
とまで云って彼女は手術を勧めた。そして、私はその気になったのである。

・卓球と私
卓球は私の中学以来馴染んだ球技で、云い難いが相当な腕である。荻村や田中に憧れて覚えた回り込んでのフォア打ちで、中学時代はほどほどに鳴らしたものだ。アメリカ時代はペンホルダーの威力を知らぬ連中を左右に振り回して、ウドの大木どもをきりきり舞いさせた。大使館時代は、館内ではあるが常勝で敵なし。体が云うことを聞いている限り卓球では人後に落ちなかった。体が、というのは実は膝がということで、デスクワーク過重な私の膝は知らぬ間に体重を支えるのがやっとという状態に痛んでいた。

それと気づかぬまま、私は日本卓球協会にハガキを書いた。辞書の様な細字でぎっしりと、私は地元の上野毛で余暇に卓球をしたいのだが施設を紹介してくれろと頼んだのである。このハガキがぐるぐると回送されて一本の電話になって私につながった。地元のチーム「上野毛クラブ」からの電話で、お会いしたいのでラケット持参で来て欲しいという。数日後、私は玉川小学校へ出向き、何本かのテスト打ちをしてクラブ員に迎えられた。

・膝の違和感
クラブの例会に参加してしばらく経った頃、私は足回りに違和感を覚えるようになる。思えば、私の膝はあの頃から劣化が始まっていた。左右への体重移動に膝が対応できない。ちくりと痛むのだ。膝の構造など考えたこともなく、改めて調べるほどの切迫感はなかった。クラブでの練習から試合、ちくりはあるにせよ膝の物理性にまで神経が及ばない。劣化の実感がなかったのだ。その頃何らかの手を打っておけば劣化が防げたわけでもなく、膝の軟骨は着々と減り、上下骨同士の摺り合わせが始まっていたのだ。

・帰郷、土いじり、膝苦労
母の晩年を看取り、ままよとそのまま里に居付いて数年、土いじりの裏に膝の不具合を抱えて懊悩する。一方の足で体重を支え難くなり、やがて段差を忌むようになった。階段の上り下りを避け始め、しばしば転倒して「柔道の受け身だ」などと強がる惨めさ。人工膝のあれこれを考え始める。一昨年のこと、Aさんたちに後押しされてその気になっていた私は、掛かり付けの上野毛の松村医院で先生の意見を叩いた。よかろうと云うかと思えば渋面で答える松村先生。施術直後の処置次第で大事にもなるというご宣託だ。私は怯んだ。明日にもと思っていた施術への心意気が萎えた。

・再びの膝栗毛
それからほぼ二年、私の心理は右へ左へ揺れまくった。帝京大学病院の膝の権威も訊ね、切るならいつでも切れるからとまずは歩行姿勢の改善を勧められ鋭意努力する。が、段差の悩みは消えるどころか深まるばかりだった。

そして、運命の日が訪れた。旧年末、苑田会人工関節センター病院から突如電話があり、予約を早めて年明けにしたい、と。実は、二年前Aさんと会った直後、NHKのTV番組で見た人工関節手術の権威に愚妻が予約を入れていたのだ。何千件もの手術を手がけられた人工関節の権威・杉本先生に掛かる予約が二年も先だったので、私も愚妻も予約を入れていたことを忘れていた。この時点で私の脳内スイッチが切り替わる。前立腺癌以来の膝栗毛、文字通り膝そのものを弄(いじ)る再びの膝栗毛が本番に入ったのである。

・あれもできる、これもできる
年明けの1月5日、足立区にある同病院に出向いた。人工関節ばなしで埋まっている病院だけのことはあり、事前の検査から精にして密だった。そして杉本先生。名医とはこういうものかという風格が漂う。杉本先生から、
「島村さん、ラッキーですね。人工膝は内側だけにできますので、リスクが低まります。この病院では手術時にほとんど出血しないので、血液さらさらの薬を止めずに手術ができますからご心配なく。」という天の声をいただいた。手術は5月中旬に決まった。

例えようもない快感だ。ほとんどリスクなしとのご託宣の瞬間から、私の脳神経ベクトルは超プラス思考に振れ、それ以来「膝が治ればあれもこれも…」とできることのみを夢想。傘寿を越えて以来、いまや最も華やいだ気分を味わっている。

卓球は云うに及ばず、段差奴に一泡吹かさんと、手ぐすねならぬ膝まくりをして待っているのだ。膝行り(いざり)もありかの邪念がふと浮いては消える。だがそれはいっときのこと。膝頭を撫でながら思う。
「おい、お前たちの嫌がらせもあと暫くのことだ。精々励めよ。」
五月晴れが待ち遠しいことだ。


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