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コーセーだから №47 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳創業の哲学」  8

            (株)コーセーOB   北原 保

事業欲、父から学ぶ
進学断念して上京決意

ガキ大将時代

 小林孝三郎氏は、茨城県猿島郷の岩井町の出身、猿島というと大利根川の流れる関東平野の中心部、つい最近〝猿島肝炎〟で有名になった地方だ。明治30年にその町の呉服屋の7人兄弟の三男坊に生まれた。が、幼いころから乱暴で、父の伊三郎さんや母親のすゑさんを泣かせて育った。
 「いわゆるガキ大将という奴で、近所の子供たちをひき連れてあばれる。年上の人と取っ組み合いのケンカをする。父母はたえず近所からねじ込まれてヒーヒーいっていたようだね」
 弟の聰三専務は兄孝三郎の幼少時代をこう語る。ある時など、長兄と姉と女中の3人がかりでおさえつけられ、オキュウをすえられたことがある。小林社長は「そのオキュウの熱かったことをいまもって忘れませんよ」と童心にかえる。
 父親の伊三郎さんは「こいつは早く東京にやっちまえ」とよくどなったものだ。が、負けん気の孝三郎少年が父から学びとったのは、皮肉なことに伊三郎さんの事業欲であったという。
 「いまにして考えると、親父という人は町会議員をしたりして野心家だった。それにおしゃれでフロックコートなど着ていましたね。そのころ岩井町の釜屋の家は天井や廊下が杉の一枚板で紫檀、黒檀、タガヤサンをつかったたいへんぜいたくな造りでしてね。毎日のように家を見に来る客がぞろぞろいたのを思い出します。父親は建築には目がないくらい凝っていた人だというから、自分がゴルフや絵画趣味に凝るのと、どこかつながっているんでしょうね」

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 1901年頃1番左が小林孝三郎、その右が父の小林伊三郎

 父親は、煙草が専売になる前、煙草製造工場をつくり、猿島のあたりの煙草を集め一手に製造していた。が、これが専売制度ができて国に買い上げられると、こんどは醤油の製造をはじめた。が、仕事は大成しないうちに他界してしまった。この父親の死は残された子どもたちにとっては試練にもひとしかった。長兄は東京の旧制中学三年を中退して醤油屋の後を継いだ。孝三郎少年は6年生で千葉の我孫子の姉の家にあずけられた。姉の家は二万石の造り酒屋でここから高等小学校にかよった。

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 大正中期 長兄の始めた釜屋醤油店の初売

 我孫子の高等小学校では孝三郎少年は成績がよく、級長をつとめていたそうだ。卒業のとき校長先生から「お前は中学に行け」とすすめられたが、運悪く兄が親族の保証人になったためそれが元で負債を背負うハメになり、中学進学は断念して、実業に入ることにした。そこで親戚の釜屋化学と言う化粧品のビン類を製造していた小室新之助氏を頼って上京した。
 釜屋化学といえば、いまは化粧品のビン工場としては日本で有数な工場であるが、当時まだ町工場だった。もちろん、化粧品メーカーも中小企業であった。15才の少年はそのとき小室の叔父が「化粧品メーカーというのは将来性のある企業だよ」とすすめてくれた言葉を思い起こす。その化粧品会社というのが、堅実経営をモットーにする高橋東洋堂であった。

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 大正13年 小林孝三郎の給与明細

 東洋堂は明治26年の創業、社長は先代の高橋志摩五郎という人。当時は化粧品の創生期、すでに井筒香油、福原資生堂(資生堂の前身)、レート化粧品、桃谷順天館、花王石鹸などというメーカーがありクリームやみその白粉とかハミガキや黒い石鹸を売っていた。
 孝三郎少年が小僧として東洋堂に奉公したのが明治45年、東五軒町には二階建ての工場があり、他に製造所があって、香料研究室なんてハイカラな設備もあった。
 「入社したころ東洋堂はパール練香油(いまのポマードの元祖)が主力で、そのほか香水ではかなり有名な会社でしたからね。一時は製品を中国の上海や南方に相当輸出していましたよ。〝蜜糖香〟は〝七つの星の麝香……〟なんて売り出して百万単位に売れに売れたことがあります。中身は澱粉とワセリンでいまいう〝桃の花〟ですが、当時の化粧品はその程度、そのころから化粧品といっしょに生きたんですから……」(小林社長の話)
                                                    (昭和44年10月15日付)

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