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いつか空が晴れる №52 [雑木林の四季]

    いつか空が晴れる
         -Bach  BMW 1083-

                      澁澤京子

 去年の大晦日に階段を踏み外して右足を捻挫したため、お正月にかけて寝込んでいた。おまけに足の痛みからか風邪なのか熱も出て喉が渇いてしょうがない。二階奥にある私の部屋から階下のキッチンまで下りていくのは至難の業で、息子が差し入れてくれたポカリスウェットとゼリーでしのぐ。何しろ同じ二階にあるトイレに行くのも大変な労力使うのだ。
片足が不自由になることがこんなに大変なことになるとは思わなかった。骨折はなかったもののまだ痛みは残っていて、毎晩寝る前に習慣にしていた坐禅もいまだにできない始末。
「人は一人では生きていけない。」
ベッドに横になったまま、ぼんやり考えたのであった。

病気になったり、怪我をしたりすると、自分の無力がひしひしとわかる。五体満足のときは自分の意志と力で生きているように錯覚していたけど、実はそうじゃなかったんだ、私には何もわかっていなかったんだ、と。
光に照らされて落馬して盲目になったパウロは、人に手を引いてもらわないと歩けなかったという。ひょっとして落馬したときに捻挫もしていたんじゃないだろうか?
落馬したパウロは回心した。正義と信じてキリスト教を迫害していたパウロはここで180度方向転換する。パリサイ派のパウロは、自分の信じていた正しさが、世間的な浅いものでしかなかったことに気が付く。そして人間の小賢しい浅はかな知恵などをはるかに超えた大いなるものがあることがわかり、生き方そのものが能動から受動に、私が生きるが生かされているに、エゴの明け渡しに一気に転換されたのだ。
去年、バベルの塔の絵画が日本に来て話題になったけど、ブリューゲルに「正義」という銅版画がある。その絵のあちこちでは吊るし上げ、拷問が行われている。よく自分は正しいつもりで平気で他人を批判したりすることがあるけど、それって結局こういうことなのだなあと、眺めているうちに暗澹とした気持ちになってくる。

自分が無力で限界があるという思いを維持するのは難しい、私など元気になればすぐに慢心したり思い上がったりしてしまうからだ。
パウロの回心は正法眼蔵『生死』の「この生死は仏の御いのちなり。・・(中略)仏のいへ(家)になげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる・・」にとても似ているのじゃないだろうか。

バッハのカンタータには聖書の詩篇が作曲されているものが多く、この曲はバロック集のCDに偶々入っていて、好きで何度も聴いた。詩篇のタイトルは「砕かれた魂」
詩篇はヨブ記のように、世の中や人の理不尽に対する、苦しみや絶望からの嘆きが多い。人は逆境になった時に、最も無防備に無力な自分さらけ出す。
修道院のシスターや神父さんたちは詩篇を読むのが日課になっているのだそうだ。
ぎりぎりの状況から発せられた詩篇の数々の言葉は赤裸々で、虚栄がまったくなくて無防備で無力である。そして、おそらく神は、最も切羽詰まって必要としている人の近くにいつもいるのではないだろうか。

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