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医史跡を巡る旅 №51 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め・福岡藩其の二」

          保険衛星監視員  小川 優

今では九州屈指の繁華街、博多の中洲に、弘化4年(1847年)蘭癖大名であり、幕末の名君のひとりともされる第11代黒田藩主長溥により、精煉所が設置されます。

「福岡藩精煉所跡石碑」

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「福岡藩精煉所跡石碑」~福岡市博多区中洲二丁目 地下鉄「中洲川端駅」2番出口そば

精煉所のあった場所は歓楽街の真ん中。地下鉄から地上に出てすぐ、跡地を記念する石碑は立派なものですが、ビルの柱に挟まれてこっそりと建っています。

「福岡藩精煉所跡石碑」遠景

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「福岡藩精煉所跡石碑」遠景~福岡市博多区中洲二丁目 地下鉄「中洲川端駅」2番出口そば

福岡藩精煉所は反射炉まで有する一大理化学研究所で、鉄の精錬、染料やガラスの製造、写真術、そして製薬などが行われました。本国に帰国する出島の蘭医ハン・デ・ブルクから医療機器や理化学機器を購入し、長崎留学から帰った大神勝右衛門が主任となりました。
当時の西洋からの情報は長崎からしか入って来ませんから、九州は最先端地域でした。同じ時期に九州列強各藩は西洋からの科学の導入に躍起になっており、佐賀藩では鍋島直正が嘉永5年(1852年)に精煉方を設けて蒸気機関の研究やガラス製造を、薩摩藩では島津斉輿が兵器の製造のために弘化3年(1846年)には鋳製方と、製薬のために中村製薬所を創設、次代の斉彬が嘉永6年(1853年)に反射炉を作ります。
そして福岡藩精煉所で製薬に携わったのが、緒方洪庵の適塾に学んだ武谷祐之です。

「武谷祐之墓」

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「武谷祐之墓」~福岡県宮若市脇田

武谷祐之(号は椋亭、あるいは澧蘭)は文政3年(1820年)、古方の医者である武谷元立の長男として生まれます。

「武谷元立墓」

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「武谷元立墓」~福岡県宮若市脇田

父元立は、鞍手郡高野村で代々続く古方の医家です。古方、あるいは古医方は漢方を基本としながら、観念的な理論によらず、積極的に新しい知識を取り入れ、経験と実証に基づく学派で、日本初の解剖を行った山脇東洋、解体新書を翻訳・出版した杉田玄白、前野良沢、そして全身麻酔による手術を行った華岡青洲など、全面的な西洋医学に移行するまでの重要な橋渡しを務める医師を排出します。前回ご紹介した亀井南冥、昭陽親子も古医方で、元立もその流れを汲んでいます。
文政10年(1827年)、百武万里らとともに出島の医師シーボルトの元に留学します。福岡に戻って天保12年(1841年)、百武万里が本刀(執刀)、武谷元立が按図、息子の祐之が書記を務めて記録が残る九州初の解剖を行います。

武谷祐之は天保15年(1844年)、大阪の緒方洪庵の適塾に入塾します。祐之と師洪庵との交友は、祐之が福岡に戻ってからも続き、多くの書簡が残っているほか、洪庵の息子である緒方惟準が長崎に留学する際は、祐之らが後見人として頼られています。
大阪から帰った祐之は種痘の普及に努め、同時に藩校としての西洋医学に基づく医学校の開設を建白しますが、家老や漢方医の反対にあい、なかなか実現しません。漢方医の河島養林が漢洋折衷の医学校とすることを提案し、慶応3年、賛生館としてようやく開校の運びとなります。運営、教師の多くを漢方医が占め、西洋医は頭取となった祐之唯一人でした。こうしてせっかく生まれた賛生館も、間もなく維新の激動の中で閉校の憂き目にあいます。しかし播かれた種はのちに九州大学医学部として大輪の花を咲かせることとなります。
一方、祐之が精煉方御用として関わった精煉所における製薬事業ですが、肝油の精製と、駆虫剤のサントニンの製造に成功します。

祐之は明治27年(1894年)、75歳で没します。父、武谷元立とともに、もともと診療所のあった鞍手の地に眠っています。

「武谷家奥津城」

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「武谷家奥津城」~福岡県宮若市脇田

武谷家は集落の高台にありました。ご子孫は現在この地を離れているようで、屋敷跡には石碑だけが残っています。武谷家の墓地は旧宅跡を更にのぼり、山に入ってすぐにあります。

「武谷家旧宅跡」

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武谷家旧宅跡

旧宅跡、墓地ともに、福岡からJRバスに乗り山道を揺られて小一時間ほどの場所になります。はっきり言って、交通の便はあまりよくありません。

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