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余は如何にして基督信徒となりし乎 №55 [心の小径]

基督教国にて—進学の一瞥 2

                    内村鑑三

 ルーテルもまた、よし普通の牧師ではなくても、牧師ではなかったか。あの勇敢な偶像破壊者ジョン・ノックスは牧師にして神学者ではなかったか。世界の最も偉大な勇士の幾人かもまた神学の恩慮深い研究者ではなかったか。余の理想の紳士にして基督信徒なるジョン・ハムプデン、よし彼は英国人であっても、—彼の英雄的行為はその深い神学的確信の結果ではなかったか。ガス.バール・ド・コリニー、—彼の神学は彼の愛するフランスの大改新計画を立てるにあたって彼に何の価値もなかったか。もし神学が遊戯であり、世界の最大の嘘つきと偽善者との魔法使いの盃であったとしても、それはまた世界の最も偉大な知力の使用であり、また世界の最も高額な霊魂の鍛錬者ではなかったか。もしその語源が示すように、神学(Theology)は神の学であるならば、いかなるアダムの真の子らがこれの敬慶な研究を辞退することができるか。神の宇宙についてのいかなる学が神学でないのか。そして神の学に導かれなければ人間のいかなる行為が正しく且つ真であり得ようか。おお我が霊魂よ、なんじはそれならば神学生となれ。それを偽善者と霊的薮医者(やぶいしゃ)の手から救え、ダビデがペリシテ人の手から神の箱を救ったように。その学それ自身はあらゆる学の中にて最も高貴なものである、ただ『異教徒』の手にそれを放置してわく人間が悪いだけである。
 霊的経験の日々に増し加わる現実感が、余を助けて余がかつて神学に結びつけていた空虚さと非実用性との観念をことごとく駆逐(くちく)せしめたのである。じつに余は余の神学整心の理由が判った。もし米や馬鈴薯(ばれいしょ)が現実であるように霊が現実であるならば、何故に神学を軽蔑して農業を賞讃するのであるか。もし穀物を生長させて余自身と余の飢えている同胞とを神の大地の果実をもって養うことが高貴であるならば、彼の御霊を我らの飢えている霊魂のものとするため彼の律法について学び、それによってより高貴により男らしくされることが、何故に卑むべきであるか。ただ穀(から)と藁(わら)だけを産し、そしてそれを本当の麦と米であるとして公衆に与える農業をば、我々は軽蔑(けいべつ)し馬倒(ばとう)する。そういうものはじつに農業(Agriculture)などというものではない、それは岩業(Rock・Culture)であり砂業(Sand・Culture)であり、現実には何人をも養わないものである。それゆえに余が罵っていた神学(Thology)は非神学(No Theology)なのである。それは霊の代りに風を、説教の代りに修辞学を、音楽の代りに音響を与える悪魔学(Demonology)であったのである。神学は実質的であり、食べられ飲めるものである、-—それが与える水から飲む者は誰も渇くことはなく、それが与える肉を食べる者は誰も飢えることがないほど、それほど実質的、それほど栄養的である。神学を恥じるか。しかり、なんじは永久に非神学を、悪魔学を恥じよ、それが神学校その他の機関で教えられても。しかし本当の神学は、何処で教えられても、なんじはこれを誇るべし。貧者と飢餓者の救援のため昌分の朽つべき富を惜しみなく献げたジョージ・ピーボディとスチーブン・ジラードの名を尊敬する世界は、我々の宗教的思想を組織化して善を為すことと神に仕えることとをほとんど科学的可能事としたネアンデル、ユリウス・ミュラー、その他そういう種類の人々の名をあがめ続けるであろう。『心は神学の中心なり』と教会史の父は言った、そして心がなくてただ胃だけのものは、その外に立つべきである。
 かように信じて、余は神学を学ぶべく余の心を決した、しかし一つ重要な条件をつけた、そしてそれは余はけっして聖職者免許を受けないであろうということであった。余は心の中で言った、『主よもし、貴神(あなた)方が私をレヴェレンドとなることを強制したまいませんならば私は神学を学ぶでありましょう、もし基督教国のあらゆる神学を取り入れることに成功しましても、私は二重のDによって示されたあの重々しい称号を私の名に加えないでありましょう、貴神は私を私のこの最後の犠牲のためにそれから免除してくだきらなければなりません』と。彼は言いたもうた、よしと、そして余はその同意に基づい三神学校に入学したのである。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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