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多摩のむかし道と伝説の旅 №18 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

[中流域:上水が開渠でが見られる小平監視所~浅間橋まで] 2

                        原田環爾

17-14.jpg 17-15.jpgやがて境橋の袂に来る。ここからは千川上水が分水されている。将軍の立寄先である小石川白山御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草寺御殿等の飲料水を賄うために開削された水路だ。次にうど橋を過ぎ武蔵境通りの桜橋に出る。桜橋の袂には文豪国木田独歩文学碑がある。小説「欺かざるの記抄 佐々木信子との恋愛」によれば桜橋からうど橋辺りは独歩が信子が散策した場所である。ちなみにうど橋の南に通称「独歩の森」と呼ばれる雑木林がある。
18-1.jpg 桜橋からは都水道局の浄水場横となる。深大寺道の大橋をやり過ごすと、近年建設された車道のいちょう橋と人道橋「ぎんなん橋」の袂に来る。ぎんなん橋はかつて鉄道が走っていた廃線跡だ。橋の南側は堀合遊歩道、北側はグリーンパーク遊歩道である。車道が建設される以前は橋はなく上水の両岸に鉄道の橋台跡見るだけだった。この廃線跡は戦前までは武蔵境駅から現都立武蔵野中央公園付近にあった中島飛行機武蔵製作所への引込線であった。そして戦後は武蔵野競技場線という鉄道が走った。昭和26年蔵野市役所付近に国鉄スワローズの野球場がオープンし、三鷹駅と武蔵野球技場前との間に鉄道が敷かれ観戦客を運んだ。しかし球場の使用は1シーズンで終了し、昭和34年廃線となった。
18-2.jpg 三鷹通りのけやき橋を過ぎると上水は暗渠となって三鷹駅下で中央線と交差し、駅南側の三鷹橋で再び開渠となって現れる。そこから100mばかり右岸を進むと沿道右に小広場がある。植え込みの中にパネルがあり、作家太宰治の『乞食学生』の一節と、昭和23年玉川上水で入水自殺した旨が記されている。ちなみに広場20~30m先の歩道脇に『玉鹿石』と称する茶褐色の大きな石が置かれている。傍らの説明版にはただ『青森県北津軽郡金木町産』とだけ記されている。ここが太宰が愛人と入水自殺した場所とされている。説明版の地名は太宰の出身地にほかならない。18-3.jpg今の上水からは想像もつかないほど、昔は水量も多く川底も相当深く人喰い川などと呼ばれていた。
 続いてむらさき橋を左にやると古風な洒落た洋館が見えてくる。文豪山本有三記念館だ。昭和11年~21年、有三はここに移り住み、名作「路傍の石」や「米百俵」を書いた。正面入り口には代表作「路傍の石」にちなんだ正にその名を付けた石が由緒書と共に置かれている。有三が中野の旧陸軍電信隊付近の道端で見つけたものを裏庭に運び込んだという。
18-4.jpg 記念館を過ぎるとまもなく吉祥寺通りの萬助橋の袂に出る。萬助とは下連雀の旧家渡辺家の世襲名を萬助と称したことによる。通りの向こうは鬱蒼とした雑木林で覆われた井の頭公園だ。ちなみに吉祥寺通りを南へ100mも進めばアニメ作家宮崎駿氏の”ジブリ”がある。萬助橋の袂から井の頭公園の雑木林の中に入る。程なくほたる橋の袂に来る。ここから井の頭池は目と鼻の所にある。井の頭池は 「七井の池」と呼ばれるように7箇所の湧水があると言われ、玉川上水開削に先立つ寛永年間にここを水源に神田上水がひかれた。
 18-5.jpg井の頭公園を抜けると新橋という古い石橋の袂に来る。新橋は入水した太宰治の水死体が流れ着いた所という。明星学園を右に見て人道橋「まつかげ橋」まで来ると、右岸は旧東京女子大裏の深い雑木林となる。この辺りの上水は一段と深く、また尾根伝いに開削されている様子がよくわかる。雑木林を抜けるとそこが校門で近年までは旧東京女子大のしっとり落ち着いた門であったが、今は法政高校に所有が移転されている。以前の門は継承されてはいるが、改装されて雰囲気は随分変わってしまった。校門の少し先で井の頭公園通りと交差しそこに 井の頭橋が架かっている。
 人道橋「若草橋」をやり過ごすと、ほどなく風雅なアー チ型をした石橋が視界に入って来る。宮下橋とい18-6.jpg18-7.jpgう。橋は三鷹台駅前通りで、昔は井の頭弁天のお参りに甲州街道からこの宮下橋を通って行ったという。橋の名はここより通りを南に坂道を100mも上がれば左手丘の上に神明神社があることによる。丘は高番山といい牟礼城址という小田原北条氏の城があった。関東の覇権をめぐって上杉氏と北条氏が争った戦国時代、相次ぐ敗戦で江戸城を追われ本拠地を川越に移した上杉氏は、巻き返しを計り前線基地として深大寺城を築いた。これに対抗するため、天文6年小田原北条氏は家臣の北条綱種をしてこの丘の上に砦を築かせた。それが牟礼城である。当時境内にあった松の大木に旗をかかげて深大寺城に対峙したという。綱種は陣内鎮護のため芝の飯倉神明宮を分霊勧請し祀ったという。因みに旗をかけたという松は今はないが、由来碑が建ち、松のかわりに楠が二代目として植樹されている。
 東橋、長兵衛橋を過ぎると牟礼橋で人見街道に出る。牟礼橋の隣りに古い石橋が残されている。『どんどん橋』と愛称されていたようで、昔は上水の水量が多く橋の下で『どんどん』と水の音が鳴り響いたことからこの名がある。街道を横切れば杉並区に入る。牟礼橋から先の上水付近は近年、新しい道路が建設されつつあり様相が一変してしまっている。ほどなく国学院久我山高校が近い兵庫橋に来る。橋の名は最初に丸木橋を架けた大熊兵庫の名にちなんだものという。ここにはかつて水番所があった。兵庫橋を過ぎると次は久我山駅へ通じる岩崎橋の袂に来る。岩崎橋の名は橋の南詰が岩崎通信という大手企業の本拠地であったことによる。
18-8.jpg やがて前方に中央自動車道の高架が見えてくる。自動車道のガード下付近は小さな緑地のロータリーになっていて、かつて浅間橋があったところだ。その名が示す通り昔は小さな浅間社の祠があったというが今はない。上水はその緑地の手前で芥止めで塵を取り除かれて地下に吸い込まれ、以降暗渠となっている。羽村堰から約31.5km、玉川上水の開渠の終着点である。上水沿いの小径もここで終わる。



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