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雑記帳2018-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-4-15
◆東京の桜の名所は数々あるけれど、江戸城外堀の桜は意外と穴場?

今年の桜は早く、3月のうちに東京はもう満開を迎えていました。それでも、雨や嵐に会うこともなく、花の期間は意外に長くて、4月初日にはまだ散り残った桜を楽しむことができました。今回の散策は飯田橋から市ヶ谷です。

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木の間越しに堀沿いを走る電車が見えるので人気のスポット

集合場所の飯田橋駅は、1894年<明治27年)に甲武鉄道の新宿・牛込間が開通した時に開業した牛込駅が前身です。1928年に中央本線の複々線化に伴い、従来設置していた牛込駅と飯田町駅の近距離電車ホームを分離して誕生しました。JR市ヶ谷、飯田橋あたりはちょうど外堀に沿うように現在のJR中央線が走っています。カーブのきつい飯田橋駅は現在工事中。駅ホームが少し西に移って、電車とホームの間があいている苦情も解消されそうです。

飯田橋駅から神楽坂へ向かう牛込橋は牛込御門(見付け)のあったところ。江戸城の石垣が残っています。ちなみに見付けとは「敵を見つける」という意味で、枡形 (ますがた) をもつ城門の外側に面する部分。見張りの番兵を置き、江戸城には36見付があったといわれます。現在は四谷見付・赤坂見付などが呼称として残っています。
牛込御門は江戸時代、田安門を起点とする「上州道」の出入口として、交通の要衝でした。

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牛込橋に残る石垣

駅から数分、都内屈指の交通の便の良さを誇る地に東京逓信病院があります。ここに、かって与謝野鉄幹と晶子が暮らした住居がありました。二人が教鞭をとった、神田駿河台の文化学院は昨年、97年の歴史を閉じました。


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逓信病院の敷地の中にある与謝野鉄幹・晶子の住んだ住居跡

逓信病院のすぐそばには日本赤十字社の跡です。明治10年の西南戦争のとき、佐野常民が起こした博愛社が敵味方の区別なく傷兵の手当をしたのが我が国の赤十字の始まりといわれています。明治19年博愛社という病院が飯田橋駅付近に立てられ、日本赤十字社と名を改めました。

外堀は牛込台地の底に築かれました。今、線路や堀を見降ろしながら花見客であふれる、ひときわ小高い土手は、その時に掘った土で築かれた土塁の跡です。オフィスが立ち並ぶ中にある法政大学は、受験生に人気のあるとおり、一等地にあるのですね。


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土塁から眺めた対岸の桜
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土塁のそばの法政大学

土手を歩けば対岸に台地を上るたくさんの坂が一目瞭然です。 神楽坂、庾嶺坂(ゆれいざか)、逢坂、浄瑠璃坂、長延寺坂、左内坂…。

浄瑠璃坂は寛文12年(1672年)、この坂の辺りで仇討があったことで知られています。

宇都宮藩家老の奥平内藤允(くらのじょう)が、寛文8年、同じ家老の奥平隼人と刃傷沙汰をお越して切腹、内藤允の子、源八が元宇都宮藩士とともに隼人を打ち取った、源八らは自首した後、助命されて伊豆大島に流され、のちに許されて伊井家ほかに全員が召し抱えられたという、世にいう浄瑠璃坂の仇討です。元禄15年の赤穂浪士の討ち入りに先だつこと30年、赤穂事件はこれを手本にしたと思われ、仕官を期待した浪士たちもいたのでしょう。

長延寺坂は昔この地にあった寺の名前がついたものです。江戸市中引きまわしの刑罰はこの坂を上りました。罪人は伝馬町牢屋敷から小塚原の刑場までおよそ20キロ、まさしく江戸じゅうを引きまわされて、江戸市民にとってはちょっとした見物ものでした。罪状を記した看板を掲げ隊列を作って坂の多い江戸市中を行くわけだから、従者には重労働だったと同情してしまいました。

庾嶺坂は江戸初期、このあたりが美しい梅林であったことから、二代将軍秀忠が中国江南小の梅の名所大庾嶺にちなんで名づけたといわれています。なまって「ゆうれいざか」といわれることも。由来を知らない後世の人には全く違う連想があるかもしれません。

地下鉄半蔵門線の虎ノ門駅構内に、江戸城の立派な石垣が展示されているのにおどろいたことがあります。虎ノ門はさすが文科省のお膝元、石は見事なものでした。それほどではないにしても、有楽町線、南北線の乗り入れる、メトロ市ヶ谷駅構内にも江戸歴史散歩のコーナーがあるのです。

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その市ヶ谷駅を出れば亀岡八幡神社は目の前です。文明10年(1478年)、大田道灌が江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡神社を移したのが始まりです。高台にある境内からは防衛省が目の前。江戸時代にここにあった「時の鐘」はさぞ遠くまで響いたことでしょう。

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区内唯一の珍しい青銅の鳥居
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境内から見える防衛省の建物

飯田橋から市ヶ谷を巡って、散策の最後の地点は東京理科大学です。前身の東京物理学講習所は明治14年に設立されました。当時、自然科学の教育を行う場は、ここと東京帝国大学以外にはありませんでした。2年後に東京物理学校と改称されましたが、日本の近代化を担う多くの教員を排出しました。漱石の「坊っちゃん」も物理学校出身でした。漱石と懇意だった三代目校長の中村恭平は「吾輩は猫である」の苦沙弥先生のモデルになりました。

理科大の近くにフランス政府が管理運営する文化センター、アンスチチュ・フランセ東京がありなす。今日のお昼はセンターの芝のガーデン、ラ・ブラスリーで。新緑の下の木漏れ陽と吹きぬける風がスパイスのランチには、客の多くが屋外を希望する様子でした。


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緑が美しいグリーンピースのポタージュ
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メインのチキン
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リッチなデザート

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