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気楽な稼業ときたもんだ №54 [雑木林の四季]

  テレビマンユニオンという存在

                                テレビ・プロデユーサー  砂田 実

 テレビが家庭に向かって電波を発してもう半世紀にもなる。僕が活動した草創期のテレビ業界と現在とでは、それをとりまく社会のメカニズムがあまりにも変化してしまっている。テレビを超えると言われているパソコンや携帯電話という媒体が生まれ、急速に力を増し、媒体の訴求力に敏感なスポンサー群は、徐々にその中心をテレビから移しつつある。番組制作の技術的方法だって、変革につぐ変革で昔のテレビマンは追いついていけない。昔のテレビマンが、「テレビ屋の先輩だ」と胸を張ってみたところで、笑われるだけだろう。
 だが、物事はつねに一面ではない。テレビは、世の移り変わりに流されて変化しつづけ、〝今″に対応するだけの存在かというと、必ずしもそうではない。

 「テレビマンユニオン」という存在がある。
 テレビ業界にあまり緑のない人のために説明すると、「テレビマンユニオン」は業界の仕組みの上では、テレビ局の下請けプロダクションである。だが、たんなる下請け会社とは異なる。この会社が制作する、たとえば昭和四五年(一九七〇)の発足時からスタートしたユニークな旅番組「遠くへ行きたい」は、同名の上質なリリシズムあふれたテーマ曲とともに、多くのファンがつき、今も立派に続いている。それから、土曜日のゴールデンタイムに、NHKとは一味違った趣きで世界中でロケを展開する楽しいクイズ番組『世界不思議発見」も、すでにスタート以来三十数年、今もそれなりの人気を持って続行中である。このテレビ界でも稀有な長寿番組の双方を作りつづけているのが、テレビマンユニオンなのである。

 このテレビマンユニオンという会社を立ちあげたのは、TBSで僕より四、五年下くらいの、それぞれ優れて個性的であったディレクター、プロデューサーたちの小集団である。メンバーの一部が「成田事件」(昭和四三年、成田空港建設反対集会取材のさなか、TBSのドキュメンタリー製作スタッフが、マイクロバスに反対同盟の女性七名を乗せたことが発覚。政府などから非難・抗議を受け、計八人が処分を受けた事件)に関係していたこともあり、多少の誤解と少なくない好奇の眼差しの中で独立を果たしていった。彼らの会社は、表向きは株式会社であるが、会社法とは別の原則で運営されている。
 以下、今も優れたドラマの創り手である今野勉の著作『テレビの青春』から引用してみよう。ハ

 この運営に携わる私たちプロデューサーやディレクターは、会社に雇われる社員ではない。運営内別で私たちの立場を(メンバー)と呼ぶことにした。テレビマンユニオンはメンバー制の組織なのである。
 いろいろ変遷があって、現在は三名を限度に代表を選挙で選び、その代表が株式会社の代表取締役を兼ね、他の役員を指名して役員会を構成するという形に一元化した。世間的に言えば、社長を選挙で選ぶ会社ということになるが、その運営方法は今でも続いている。
 テレビマンユニオンの運営の理念、人間関係の理念は(合議)(対等)(役割分担)の三原則である

 この、一見夢物語にも見える理念の下、彼らはTBSから独立していった。当時、TBSの中でもサラリーマン志向の強い層は(テレビ業界でサラリーマン志向の強い人間がいるのも不思議だが、だから会社として成り立っているという面もある)、「会社というものがわかっていない」とか「クリエイターの夢物語だ」とか、一種のジェラシーからくる揶揄と思しき陰口をたたいた。だが、彼らは、前述の超長寿番組を始めとして、数々の優れたドラマやドキュメンタリーを世に問いつづけ、企業としても立派に運営している。

 彼らが独立した当時、僕はといえば、TBSの音楽斑長という、権限もなにもない、毒にも薬にもならない立場にあり、ただただ多少の驚きと羨望の眼差しで彼らを見守っていた、というのが正直なところだ。
 日常まったく没交渉のメンバーだったが、すでに鬼籍に入った、いかにも東大出の秀才タイプという村木良彦は、ほんの一時期、僕の下にいた。「砂田さん、浅利優太さんと話がしたいんでつれて行ってください」という彼の願いに、浅利が当時住んでいたマンションまで出かけたことがある。その時、村木のクリエイターとしての想いの強さに感心した。今野勉は、当時の山西社長からともに呼び出しをくつた仲間である。今野は会社に内緒で初の映画監督業に手を染め、僕はショクナイのCM作りでACC賞を受賞してしまったことが会社にバレて、一応お目玉をくらったのだ。社長室を出たが、二人ともなんとなくそのまま制作局の部屋に戻る気がしなくて、二ロビ(二階ロビーにあるティールーム)でコーヒーをすすりながら、「そんなこと言ったってしょうがねぇやな」てなことを話したのを覚えている。
 まあ、そういった一時の妙なふれ合いにすぎなかったのだが、テレビ制作者の生き方という点では、彼らの独立の仕方にかなりのショックと刺激を覚えた。というのも、万が一、ショクナイ生活をとがめられ制作局以外に出されたら、いつでも会社を辞めて独立しようと考えていた僕であるから、たんなる他人事とは思えなかったのだ。だが、僕のほうは、テレビマンユニオンの人たちのように、理念に燃えていたのでもなく、志などという上等なものもなかった。ただ、定年後も一年でも長くものを作りつづけていくためには、「自分で制作会社を立ち上げるしかないな」と、単純に考えたにすぎない。

 今野勉の著作にあるとおり、選挙で社長に選ばれた重延浩は、複数期務めたのち一ディレクターに立ち戻り、平成一八~二〇年にかけて、BS朝日で「イタリアへ~須賀敦子・静かなる魂の旅」という充実した内容のノンフィクション番組をディレクションしていた。僕は番組終わりのロールテロップで彼の名を確認し、「彼らは理念倒れではない。立派な結果を出しているな」と改めて感心した。
 僕は現在、ある魅力あふれるアーティストの育成で、テレビマンユニオンのお世話になっている。人の縁の不思議を感じる。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎


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