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論語 №25 [心の小径]

五三 王孫賈(おうそんか)問いていわく、その奥(おう)に媚(こ)びんよりはむしろ竈(かまど)に媚びよとは何の謂(いい)ぞや。子のたまわく、然(しか)らず。罪を天に獲(え)ば祷(いの)る所なきなり。

                                       法学者  穂積重遠

 「奥」は奥の間の神。位置は尊いが、つかさどる所がないというので、いわゆる「統して治せざる」君主に此する。「竈」は「へっつい」の神。位置は低いが台所をつかさどるので、権勢ある重臣にたとえる。

 孔子様が衛(えい)の国に行かれたとき、大夫(たいふ)の王孫賈が、「奥の神よりもへっついの神のごきげんをとれ、という諺があるが、何の意味でござろうかな。」と問いかけた。孔子様が答えられるよう、「どの神のごきげんをとる必要もありませぬ。最後の審判は天にあります。いったん天に対して罪を犯したならば、何神にいのってもむだでござる。」

 王孫賈が、もしこの国で用いられようと思うならば、殿様よりもわしの所へ顔出したらどだ、とほのめかしたのに対して、孔子様は、私は罪を天に獲ておりませんから、何神様におまいりする必斐もござらぬ、とはねつけたのである。孔子様は時々かように、直接法でなくて、そして強い言葉で相手をたしなめられることがある。王孫賈は後に孔子様の「軍旅(ぐんりょ)を治む」というほめ言葉が出ているほどの名臣だからそんなことを言うはずがない、という人があるが、それでは話がおもしろくない。なるほどよく「軍旅を治め」たかも知れないが、したがってまた軍閥(ぐんばつ)の大御所(おおごしょ)でいぼっていたのだろう。

五四 子のたまわく、周は二代に監(かんが)みて郁郁乎(いくいくこ)として文(ぶん)なるかな。われは周に従わん

 「郁郁」は「文盛貌〔文の盛んな貌(さま)〕」とある。

 孔子様がおっしゃるよう、「周は夏(か)殷(いん)二代の制度を参考にして盛んな礼楽文物を建設した。それが今くずれかけてきたのは、まことになげかわしい。わしはあくまで周の文化を護持したい。」

五五 子(し)大廟(たいびょう)に入りて事毎(ことごと)に問う。或(ある)ひといわく、たれか鄹人(すうひと)の子(こ)礼を知ると謂(い)うや、大廟に入りて事毎に問うと。子(し)これを闇きてのたまわく、これ礼なり。

 「大廟」は魯の先祖周公の廟。
 「鄹人の子」とは、孔子様の父が鄹という土地の長官だったことがあるので、そう言ったのだが、名を知りながらこういう呼び方をするのは、軽く見た失敬な口振りだ。なおこういう場合に「何じん」でなく「何ひと」とよむならわしになっている。

 孔子様が大廟㌃参拝しまた祭にたずさわるとき、これをどう致すのですか、次に何がござりますか、と事毎にたずねられた。そこである人が、「あの鄹人の息子は礼を心得ているなどとはいったい誰が言ったのか。大廟にはいるといちいち物をきいてまごついているではないか。」と蔭口をきいた。孔子様がそれを伝え聞いておっしゃるよう、「それが礼なのじゃ。」

 すなわち「事毎に問う」ということが大廟奉仕の礼なのだ、というのであって、もちろん儀式の次第は知ってござるが、知ったかぶりにズンズンやらずに、何も知らぬごとく係の者にたずねながら、進退されるところが、孔子様らしい。イヤ孔子様が礼をご存知ないはずはないから、これは実際まだ諸礼に習熟しておられなかった出仕始めの若い時の話だ、という人もあるが、むしろそう考えない方が味がある。しかし私自身としては、思いも寄らなかっ御宮仕えをすることになったとっさに、この文句が心に浮んで、「事毎に問いつつ」ご奉公しようと考えたことだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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