SSブログ

余は如何にして基督信徒となりし乎 №12 [心の小径]

第三章 初期の教会 5

                                             内村鑑三 

  一八七九年三月九日 我々ノ祈頑会ヲ行フ方法ヲ変更ス。
                                        
 我々はあまりにたくさん坐りつづけることによる『滑液膜炎』をおそれた。一同の要求は短い祈祷であった。同じ事は同一の集りでは繰り返さないことになった。このことは祈祷会を約二十分に短縮した、そして我々は少からず救われたのである。
 この時分であったと患う、一つの挿話(エピソード)が我々のいつもの祈躊会で起ったのは、それは余の日記に書きとめるのを怠ったものであった。その日は水曜日であった、そして我々は学校農場での三時間の実習の後でまったく疲れきっていた。たっぷりの食事と例のいやいやながらする課業との後で、我々は高き力との霊的父通に加わるにはなはだよい気分にはなかった。しかし規則は変更すべきではない、そして鎧が鳴ったときその夜の我々の牧師であったフレデリックは彼の羊を祈祷のために集めた。彼はメリケン粉樽のそばに、頭を講壇のうえに組んだ両腕のなかにうずめて、ひざまずいた、そして短い祈祷をもって集りを始めた。ほかの生徒が彼の後に一人一人つづいた、めいめい集りができるだけ透かに閉じられることを望みながら。我々は最後の者が祈ったときはうれしかった、最後のアーメンが唱えられたとき我らの牧師によって直ちに放免されるのがもどかしかった。それは唱えられ、そして唱和された、しかし牧師は無言であった。彼の使徒的祝祷は来なかった、そして他の何人にも集りを解散する権威はなかった。約五分間の完全な沈黙があった、-その夜にとっては長い時であった。我々はもはやひざまずいていることはできなかった。ヨナタンは牧師のそぼにひざまずいていた。彼はフレデリックはどうしたのかを見ようと頭をあげた。見よ、牧師はメリケン粉樽のうえで熟睡していた、何の祝祷も来なかったのは不思議ではない! 彼の聖なる言葉を待ったならば、我々は終夜坐っていたかもしれない。ヨナタンは考えた、場合は例外である、規則はかかる場合には我々の『世界会議』の承認なしに一時変更を加えらるべきであると。そこで彼は立ちあがった、そして厳粛な声で言った、『我々の兄弟フレデリックは熟睡しているので、神は牧師の職務を行うことを余に許したもうであろう。われらの主イエス・キリストの恵(めぐみ)、云々。アーメン』と。『アーメン』と一同が和した、すっと我々の疲れた頭があがった。しかしフレデ”リックのは樽の上にあって丸太のように動かなかった。チャールスが彼をゆすった、彼は目を醒(さ)ました。彼は祝祷をもって我々を去らしめようとした、-彼は夢の国にあって彼の義務を忘れなかったのである、-しかしそれはすでに唱えられ、我々はいまにも退場しようとしていた。講壇の上で睡ったのはフレデリックがいかにも悪かった、しかし我々はみな彼を許すことができた、我々はみなその夜は非常に眠たかったからである。聖なる使徒たちさえも主の祈りたまいつつあるときに眠ったのである、そして我々若い基督信徒たちが激しい労働と十分な食事との後になぜ眠ってはいけないか!

  五月十一日 日曜日  午後、桜狩り。

  五月十八日 日曜日  午後、森二遠足。

  六月二日 月曜日 我々ノ新生ノ(即チ洗礼ノ)記念日。七兄弟ト茶話会、数時間愉快ナル談話。

 我々の霊的誕生日の記念会。なぜ我々はこの日を記憶せずに我々の母がこのわびしい地上に我々を生んだ日を楽しくすごすのか、余にはすこしも理由がわからない。しかも我が国でも他の国でも多くの基督信徒にとっては、霊的誕生日は我々の滅ぶべき肉体のこの地上への出現の日の半分だけの親切な言葉も美しい贈物(プレゼンツ)も受けないように思われる。

  六月十五日 日曜日  コノ地方ノ鎮守ノ神ノ祭礼日。甚ダ苦悩セリ。然シ余ハ競馬ヲ見物セリ、余ハ「フランシス」ノ伯父サンノ招待ヲ受諾セリ(『肉ノ快楽』ノタメニ)、ソシテ余ハ大食セリ。噫(ああ)!

 我々のピューリタン的安息日は異教の祭礼によってはなはだ乱された、そして余は誘惑に屈した。『我、善を為さんと欲すれども、悪、我と共にありき、我は肉を以て罪の律法に仕えたり、噫、我困苦(なや)める人なりし哉(かな)!』である。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0