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ロワール紀行 №49 [雑木林の四季]

美しいシャンボールの城塞 2

                            スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 フランソワ一世は、なぜこのような湿気の多い防禦力のない原野の真中に、この壮麗なシャトオを営んだのであろうか。
 その動機について、色々の臆測がある。
 「恋と狩と戦と生を愛した」といわれる彼は、ことのほか狩猟に熱中した。
 彼の最も愛した狩場は、獲物の多い、このシャンボール一帯の深い森と広大な原野であった。しかし、居城のブロワからここに馬を駆るには、最短距離を走っても十二哩の道程であった。そのため、ここに簡単な狩小屋を設け、そこに寝泊りして終日、好きな狩猟に堪能した。
 とにかく、彼の狩にたいする愛着の程度は、ルゥイ十二世の王女、クロォド・ドゥ・フランスと、結婚したときの話でも想像できる。
 結婚式が終ると、彼は祝宴にも出ずに、直ちに着替えて、近くの森に狩猟にでかけた。それから数日間、ブレソワ地方の森を駈け廻り、ブロワの城に戻らなかった。花嫁クロォド王妃は、泣きながら、幾夜も待ったという。それほど狩猟狂の彼のことだから、好きな狩に便利なこの地を選んだのだろう。
 彼は、ここにブロワやアムボワーズの城を遥かに凌ぐ、己れの勢力と趣味を誇示するシャトオを作り、そこで楽しみたいと考えた、というのがその一つの説である。
 異説によれば、クロォド妃とブロワの放館に暮していた彼は、別居の愉しみを味いたくなった。
 この年若く不覊精惇な王は、王妃の眼から逃れて、多くの美女たちに囲まれ、愛する女性と恋を語らい、生を楽しむのに恰好な城館を作りたいと思った。というのがもう一つの見方である。
 しかし、クロォド王妃は早世しているから、この話は潤色しすぎている。尤も、王が王妃を余り好きではなかったことは、事実のようである。
 その何れにも、それぞれ考証の理由があろう。私はブロワのフランソワ一世翼部を見、シャンボールのシャトオを歩き、その美しい森を眺めながら考えた。恐らくイタリアの、あの明るく美しい風光を知った彼が、陰鬱なプロワを逃れ、ここに豪壮華麗なシャトオを建てたくなったのだろう。
 加うるに、広大な森には獲物が多い。
 それにもまして、何ものをも恐れぬ王の豪放潤達な気性に、人生とは自由に生きることにあり、というルネッサンスの火が燃え移つたのであろう。             
 とにかく、シャトオというより宮殿(バレ)というべき、規模と意匠の城館である。
 一六六八年以降、ルゥイ十四世によりヴェルサイユに営まれたような、華麗な官延生活の最初の試みが、それに先立つこと一世紀半も前に、ここに展開されたという事実は、大いに注目に値する。
 フランソワ一世の宮廷は、当時のフランスの、思想と芸術の源泉であった。
 まず優雅、洗錬された社交、豪著と快楽にたいする趣味が強調された。音楽、狩り、遊び、恋の戯れ、風俗も精神もすべて自由であった。ルネッサンス時代の人々は、キリストには帰依(きえ)するが、その教義に従った生活はしない。彼等は来世よりも現世に満足を求めた。生の激しい快楽を追求すること、二十世紀の人々と同じであった。
 フランソワ一世は、豪著を愛した。宮殿と庭園と女性の美を愛した。「貴女たちのいない宮廷は、バラのない春である」と王はいう。彼は夜毎、日毎、美女に覆われた男でもあった。彼の宮廷は、多くのイタリア芸術家を快よく招いた。レオナルド・ダ・ヴィンチは、ロワールのアムボワーズに近いクルーに、フランソワ一世から邸宅を貰い、移り住んだ。彼が死ぬまで、そこに暮したのも、この時代である。
 来るものは拒まず、の包容力でイタリア文化を吸収し、このロワール河畔のシャトオに、宮廷に、フランス・ルネッサンスの最初の花が咲き始めたのである。
 貴族の子弟は競ってイタリアに行き、フィレンツェ、パァドォヴア、フェララなどで学んだ。フランソワ一世の宮廷は完全にイタリア化し、通訳や翻訳も不要だったという。
 この滔々たるイタリア文化の摂取の渦中にも、その思想やシャトオの建築様式において、彼は決してフランス精神を忘れていなかった。イタリアン・ルネッサンスを模倣し消化し、序々にフランス的な独自なものを生みつつあった。
 それは王のみではなく、フランスの建築家や職人気質の中に、反撥しつつあった感情であり現象でもあった。その一つの現れとして、一五三九年八月十五日のヴィレル・コトレの勅令で、フランソワ一世は、フランス王国の公文書と裁判書類は、ラテン語を中止し、すべて「母国語フランス語にて」記すべきことを命じた。
 フランス独自の感覚で、後世、フランス・ルネッサンスと呼ばれる、一つの文化が生まれつつあった。ローマ帝国の五世紀に亘るガリア占領以来、フランスの公用語であり日常語でもあったラテン語は、ここに勢力を失うことになった。のちに、ヨォロッパ諸国の上に大きな影響力を与え、外交、舎公用語として、今日に至るまで話され書かれる、優雅なフランス語の絢爛たる発展が始まったのも彼のお蔭であった。

『ロワール紀行』 経済往来社


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