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医史跡を巡る旅 №23 [雑木林の四季]

「紀行シリーズ」~上野公園散策

                                  保健衛生監視員  小川 優

脚気論争のまとめをそろそろ書こうと思っているのですが、なかなか資料の整理が進みません。こちらはもう暫く猶予を戴くとして、一旦終わったはずの東大本郷キャンパスの医史跡巡り、もう少し足を延ばすことといたしましょう。

「東大本郷キャンパス散策・中篇」でご紹介した東大病院横の鉄門を出て、坂道を下ると不忍池に出ます。まずは今回、ここを起点として上野公園をまわりましょう。地下鉄の最寄駅は千代田線の湯島になります。
 不忍池を横切る遊歩道を歩き、弁天堂をこえると上野公園の外周道路にぶつかります。左手に曲がるとすぐに「五條天神社」の石柱があり、その脇のゆるやかなスロープを上ったところが、第10回「くすりの日」でご紹介した五條天神社になります。

23画像①五條天神社.JPG

「五條天神社」~東京都台東区上野公園
御祭神
大己貴命(おおなむじのみこと)[大国主命]、少彦名命(すくなひこなのみこと)

もともとそれほど大きな神社というわけでもなく、賑やかな公園のメインストリートから少し離れただけですが、木立に囲まれた静かな空間です。
お祀りしているのが、大国主命、少彦名命ということで、医薬祖神を冠しています。

23画像②五條天神社御由緒.JPG

「五條天神社 御由緒」~東京都台東区上野公園
御由緒
第十二代景行(けいこう)天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝なされて、此の地に両神をおまつりされましたのが当社の御創祀であります。(約1900年前)
(東京神社庁のホームページより引用)

境内を離れ、メインストリートを少し歩くと、大噴水広場に出ます。噴水の西側、東京都美術館側の植栽の中に、ボードワン博士像があります。

23画像③ボードワン博士像全景.jpg

「ボードワン博士像 全景」~東京都台東区上野公園
第11回「脚気論争~陸軍の人々 前篇」で、緒方惟準とともに大阪の仮病院の開設にかかわったとして、ちょっとだけご紹介したので、ご記憶のある方もいらっしゃるかもしれません。銅像には「ボードワン」と書かれていますが、ボードウィン、あるいはボードインと表記されることもあります。

23画像④ボードワン博士像.JPG

「ボードワン博士像」~東京都台東区上野公園
アントニウス・フランシスクス・ボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin)
1820年にオランダ、ドルトレヒト生まれ。ユトレヒト陸軍軍医学校とユトレヒト大学医学部で医学を学び、卒業後はオランダ陸軍に入隊。1862年(文久2年)、先に日本の長崎出島に、オランダ貿易会社社員として滞在していた弟の働きかけにより、江戸幕府の招きを受けて来日。ポンペの後任として長崎養生所(長崎大学医学部の前進)の教頭となる。長崎や大阪、江戸でもオランダ医学を伝える。1866年(慶応2年)に教頭を離任し、緒方惟準ら留学生を伴ってオランダに帰国したが、戊辰戦争が勃発、1867年(慶応3年)に再来日。新政府のもとで大阪仮学校、大阪陸軍病院で治療と教育に当たったほか、大学東校でも教鞭をとった。1870年に帰国し、1873年にはオランダ陸軍に復帰。1884年に退役し、ハーグで1885年に病没した。

日本の近代医学の発展のために、大きな功績を残したほかにも、都市計画における公園の必要性を日本に示しました。幕末の動乱で荒れ果てていた上野の山に、大学東校(現在の東大医学部)付属病院を建設する計画が進んでいましたが、貴重な緑を残し、公園とするよう政府に提言したのです。こうして上野公園は1873(明治6)年、国内で初めて公園として指定されました。

その恩を顕彰するために、上野公園100周年を迎えた1973年、ボードイン博士像が上野公園にたてられました。ちなみにこのときに建てられた銅像が、こちらです。

23画像⑤ボードワン博士像(2006前).jpg

「ボードワン博士像(2006年以前)
明らかに、現在の銅像の方とは違いますよね。それもそのはず、ボードウィンの略歴の中でご紹介した、「先に日本の出島に滞在していた弟」さんの方だったのです。こちらはアルベルト・ボードウィン、のちに初代の神戸オランダ領事館領事となった方です。兄弟を取り違えてしまっていたのですね。間違いは近代医史研究の第一人者、石田純郎医師が指摘するまで、気付かれることはありませんでした。実は10年以上前、当時自分のホームページで医史跡を紹介していた時、この画像を掲載していて石田先生ご本人から、メールで間違いを指摘されたことがありました。今考えると赤面ものですね。
像は2006年に正しい肖像写真をもとに作り直され、現在に至っています。ちなみにアルベルトさんの銅像は上野公園から離れた後、紆余曲折の末、2010年神戸市ポートアイランド北公園に安住の地を得たそうです。銅像一つにも、物語を感じますね。

噴水池を挟んだ反対側の木立の中には、「野口英世銅像」があります。

23画像⑥野口英世銅像.jpg

「野口英世銅像」~東京都台東区上野公園
第4回、「野口英世」の回ですでに取り上げていますね。この銅像は昭和26年、彼の偉業を讃えるために建立されました。台座にはラテン語で「人類の幸福のために」と記されています。

23画像⑦野口英世石碑.jpg

「野口英世銅像 石碑」~東京都台東区上野公園
銅像の傍らには、御影石の石碑があります。子思い、母思いであった英世の象徴として、少年時代、彼の母が紡いだであろう糸車が刻まれています。

さて、噴水公園の先には東京国立博物館があります。実は何度もこの随筆にも登場している森鴎外こと森林太郎は、1917年(大正6年)から1922年(大正11年)まで、ここ国立博物館、当時は帝室博物館の総長を務めました。
また博物館の前庭、正門脇には、ジェンナー像があります。

23画像⑧ジェンナー像.jpg

「ジェンナー像」~東京都台東区上野公園
エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)
1749年イギリスで生まれる。解剖学者であり、外科医でもあったジョン・ハンターに師事し、24歳のときに故郷グロスターシアのバークリーで、医師として開業した。日々の診察の中で、人の天然痘によく似た牛の病気に牛痘があり、乳しぼりなどで牛に接する人間にも症状は軽いながら感染して、同様の症状を呈すること、そして牛痘に罹ったものは天然痘に罹らないか、かかっても軽い症状で済むということを知る。当時はすでに天然痘の瘡蓋や膿を用いる人痘法が行われていたが、り患して重い症状を呈することも多く、極めて危険な予防法であった。牛痘を人に摂取し、天然痘り患を予防する実験を繰り返し、当時の医学界に発表するものの、当初は田舎の開業医の学説としてなかなか認められなかった。
しかしその後の天然痘の大流行において牛痘法は急速に普及し、のちに彼は「近代免疫学の父」と呼ばれるようになる。1823年没。

23画像⑨ジェンナープレート.JPG

「ジェンナー像 プレート」
1896年(明治29年)、種痘発明100年を記念して、大日本私立衛生協会が製作した銅像です。ジェンナーに「善那」という漢字をあてているのが、興味深いです。

今回は、ぶらり上野公園巡りをお送りしました。


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