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パリ・くらしと彩の手帖 №116 [雑木林の四季]

ポンピドーセンター40周年記念

                    財パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

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ポンピドーセンター 赤いのはエスカレーター
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これを見ればポンピドーの印とわかる
 
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 建物の反対側にはこんな煙突みたいなものがにょきにょき。
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上から吊るされているのがポンピドー大統領の顔。細い金属の線で描かれている。
  
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ツオンブリの今回の展覧会(ポンピドーセンターで)と初期の作品群(これが現在の大展覧会の展示です。初期の作品は何かを消してあるだけで、これが出発点 )                

                                                                                                                                                 もう随分前からフランス最大の現代美術館、サントルポンピドー(ポンピドーセンター)は、創立40年祭を盛大にやるぞと繰り返していたが、いよいよその日が来たのだ。それまでもフランスに美術館は色々とあったが、現代美術を国単位で扱うような入れ物はなかったのだ。当然、その時生きていたアーテイストたちがそれぞれ、思い思いの展覧会に出品していたから、現実に作品を見る機会は色々とあったのだろうが、その時代をリードする芸術家の作品として、特別に収納するところなどはなかったけれど、それぞれのいいアーテイストの残したものを保存するために記念館というようなものが色々と出来たけれど、それが現代アーテイスト全体を迎えるためのひとつの立派な建物になったのは初めてで、これが今から40年前の出来事だったわけなのだ。広い敷地を掘って掘ってどうなることかと思っていたのだったが、ある日から工事が急速になったと思って見ていると、いきなり巨大な煙突のようなものがいくつも突き出てきた。こうして、これが美術館に行くのを見守ることができたのだった。私のうちからはメトロに乗って10分ほどで、降りればそこが美術館なのだからありがたい。
 ポンピドー大統領といえば、ドゴールが大統領の時に首相に迎えられた人だったが、そのあと、彼自身が大統領となったわけで、間もなく始まった病と闘いながらの身となった。それまで、代々の大統領たちのクラシックな王宮趣味の一言に尽きるエリゼ宮、つまり大統領官邸は、ヴェルサイユ風が好まれていたのに、このポンピド-夫妻の現代美術のはっきりとした好みによってすべてに変化が起き、調度品一切が新しい美術に取って代わられたのであった。そしてこの事実は、その時代に生き制作する作家達にとっては一層の張り切り方が全国にひろがったのであった。古くから伝わるようなものには常にその価値が保障されているけれど、今に生きる作家達のものはいい藝術であるかないかの疑問はもたず、同時代に生きていく人々にとって、より価値のわかりやすいものであるかどうかによるものなのだから。
 ポンピドー大統領といえば、ある日、日本のジャーナリストの集まりがあって、みんなでレストランで食事をしていた時に、ラジオのニュースが流れて大統領の死を伝えたのだった。それは1974年4月2日だった。私たちは全員揃って感無量だったのを覚えている。そして、この現代美術を愛好する大統領夫妻のために作られたのがこの現代美術館だったのだ。大統領の死後、夫人のクロードーポンピドーもここでの新しい美術展にはよく通っておられたが、不思議と一般の人々が来る前の時間に、他を閉めてお迎えしていたのを思い出すが、なぜ一般人と一緒ではいけなかったのだろうか。こうして生まれたのが、今から40年前の1977年のことだったのだ。イタリアの建築家、ピアノが代表する建築家グループによって作られたものだが、この辺りに住む人にとっては、従来の建築物とはあまりに違ったものが、土から出て来たのだから、すっかり肝をつぶしたに違いない。そして、建物の横腹、それも外側に付けられたエスカレーターによって、一番上の6階まで上ることができるようになっている。まず下から大きなホールに入るとポンピドー大統領のポートレートが吊るされている。これも現代作家の作品として。また、このようにして、現在生きている世界から分離することなくそこに身を寄せ、楽しむことができるのだ。開館時間は、1年中朝は11時から夜は10時までだ。下の階には、書籍と、定期刊行物がたくさんあって、こちらの方の行列もいつも外まであふれている。ここは美術だけの城ではなく、文化一般のための場なのだから当然のことだ。常設の現代美術館は4、5階にあり、それ以外の壁面では同時進行で、いくつもの展覧会が見られる。2年ほど前から、写真専門のスぺ-スも開かれた。そして一番のお楽しみの大展覧会は6階だ。今回の40周年を祝うにあたっては、現代美術館も、その他のすべての特別展も、現在やっているすべてを二日間にわたって、無料にした。多人数の家庭ではこの機会にすべてを見てまわろうという計画を立てたに違いない。入場するために並ぶ人の列は建物の最上階から目に見えるはるかかなた迄続いているようだった。 この二日間の時間割は、土曜日は、いつもの11時にオープンしたが、終わったのは朝方の2時という素晴らしさだ。私のような夜型は、帰りのことを考えなくてよいなら、夜にたっぷりと見せてもらいたいところなのだが。現在、特別展で、大会場を占めているのがアメリカの画家、トウオンブリ(Twonbly)で、この画家、すべてを消してしまうというのが出発点で、写真家であり、詩人であり、その何でも消してしまおうという描き方から生まれたこの作家こそいかに現代そのものを代表しているかということなのだと言う。コンピューターで調べてみると彼がすべてを消そうとしているのがよく見える。この40周年を祝う二日間にポンッピどーセンターを訪れた人の数は何と9万人に近かったという。素晴らしい知の木々舎といってもいいだろうか。ただし、昨年、現代美術館の館長がかわってから色々と変化が現れて、今は日本人作家の松谷武判の作品が入った。何十年来パリにいて、鉛筆の芯を使って白い画面を塗るつぶしての仕事をお続けているが、なかなかいいもので、私などもつい手が出て、小品を2店持っているからもう一つ嬉しい。ポンッピどーセンターの大々的な40周年の賑わいは、このフランスで絵も何か一つの区切りが落ちたような気さえするイヴェントだった。

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今年の日本映画祭でも10数本の真新しい映画をみてもらったところだ。

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 私たちがパリを出発点として、フランス各地で開いている日本映画祭の、「金の太陽」も今年で11年目だ。パリで始まり、日本文化センターでバトンタッチをしてから、希望のあるフランスの町や日本の新しい映画を見たいと希望する組織のあるところには映画祭が駆けつけるという具合だ。地方の映画館が主宰するならば、その入場料の一部を、もしも公の組織や日本愛好会のような組織からの要請ならば、無料だ。しかもこの映画祭のために毎年数人の監督さん達が出席し、制作した映画について観客に話をし、また質疑応答もあるというきめ細かさである。1年目には出ししぶっていた監督さん達も、今ではあちらから早々と資料を送って下さったりして、観客との関係もただその映画を見るということにとどまらない。地方公演にも自分の映画の行くところに同行する時間のゆとりがあれば、観客達との縁が始まるのだ。かつては日本の映画を外国に輸出するのが仕事のユニジャパンなどもこの映画祭がパリで生まれたのでどうぞよろしくと挨拶しても、世界中で日本映画祭を始めるけれど、これが続いた試しがない、といささかきついお言葉を賜ったこともあったが、11年目の今は、時々嬉しい一言を連絡の紙に走り書きしてくださるようになった。”パリから帰ってくる監督さん達もみんな喜んでいますよ”などと走り書きがあると私たちも大満足だ。とにかく、世の中の景気が敏感に反映するこのようなイベントは、ややもすれば、大きな応援から、今年はちょっと無理で、などと言われると途端に響く。今年などはまさにそれが響いて大きい会場が取れなかった。映画祭を背負っている私たちは、みんな手弁当の無料労働者だ。日本語の映画をフランス語に訳すという重い責任を持っている一人のスタッフ以外はただただ、日本映画への関心と、日本を愛する気持があれだけのエネルギーの元となっているのだろう。その上、最近の日本に対する関心はこれを更に増幅しているものだ。日本に対する関心は、日本の食に興味が持たれるようになって、開かれてきた。寿司から始まって、今では、日本の味、そのものに関心を持つ人がぐっと増えたからだ。映画の作品選びにもそのことは大いに影響した。特に昨年のフェステイヴァル、丁度10周年記念に当たった昨年度などは映画を選ぶ私たち自身までその影響を受けた位に選ばれた映画と観客の期待がぴったりだったと言えよう。感じだった。その分、ヨーロッパの物語のように理屈で押していくのとはまさに反対の、日本の、言わないところに含みがあったり、時には言っていることとは裏腹の本音などを受け取ってほしい時など、もう少し複雑な日本人の感情をわかってもらえるような土壌の準備が出来かかってっているのではないかという気がするのだ。日本人を理解するためには、それでもやっぱり是非日本に行ってもらいたいものである。最近、オリンピックのためもあって、官民一体となっての努力が実を結んできたのか、日本に旅する人の数がぐっと増えたようだし、嬉しいことである。メトロに乗ってみているとあちこちの駅で、日本旅行のポスターが今までは考えられなかったような値段の広告をしているのだ。500ユーロなどというのも見た。日本円で7、8万円というところか。私もこれでもう6年、故郷を見ていない。2011年の日本の大災害で、フランスで、日本の音楽家による二つのコンサートを開いて寄付金を集めたのだったが、その頃ルーヴル美術館前の道、リヴォリ通りで駆けて、ひっくり返って、それ以来ハンデイキャップカードの所持者になってしまったのだ。それ以後の日本を私は知らないのだ。2011年の秋だったか、早稲田の毎年の行事である、卒業生の集まりと並んで、高校の青山の同窓会からの通知で、最後の同窓会をするから来いという同級生からの命令がきたので、是非行こうと考えた。早稲田のと青山のと同じ週だったので、短期間の旅でも両方に出られると考えたからだ。それがこの怪我がもとで、諦めたのだ。パリでも早稲田の会はあるが、初めは隔月で、飲もう会 とゴルフ会になってしまったから行かなくなったし、最近の新年会では、持ち寄りのものを競売したり、若者達を中心に賑やかに楽しくやっているようだが、私など椅子に座り込む年寄り組は、会費を払った上で、終わってから他に食事に行かなければならないということになって、今年は諦めたところだ。付き合いが悪いのか、サービス精神が不足しているのか,わからないけれど、どうも苦手なのだ。日本映画祭、金の太陽の11年目が、パリでの上映の後、フランスの地方版で、終わろうとしている今、民族性、国民性などを知ってもらうためには映画という、誰でもが簡単に見ることのできるものがいかに大きな役割を果たしてくれるか。それを改めて感じる今日この頃である。さて12年目となる、来年の日本映画祭はどんな映画が主役になるのだろうか。

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日本大使公邸で大使を囲む監督さんたち

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