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地球千鳥足 №95  [雑木林の四季]

蘇峰の愛した山中湖畔と蘆花の愛した芦花公園で覚醒!~日本~

                   グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子

「彩子」は蘇峰の命名
 私の名前は彩子、徳富蘇峰の命名だ。文学少女だった母は筆者誕生にあたり、雑誌を通して最盛期の思想家、蘇峰に命名を依頼した。「彩子」の名は振り仮名つきで墨で記され、折り畳まれた厚い奉書で送られて来たそうだ。この名、筆者が高校時代に作家、井上靖さんが小説に使い、流行し始めたが、筆者の知る限り「あやこ」と読む「彩子」は蘇峰命名の筆者が元祖だろう。蘇峰は号で本名は猪一郎、ご存じ蘆花(号)、徳富健次郎の兄だ。
 徳富兄弟の学んだ同志社学園で筆者も筆者が大学生の頃徳富蘇峰が講演に来た。徳富兄弟が若き日学んだ同志社学園、蘇峰は死の1年前だった。19歳の女子大生、彩子がもし自分の命名者の講演を聞いていたなら特別の記事が書けたのに!残念ながら筆者の彼への認識は「転向者」だけだった。蘇峰は明治、大正、昭和を通じての大新聞記者、思想家、社会事業家だ。新島襄の同志社で学び上京、「民友社」を創立、「国民之友」や「国民新聞」を創刊し、平民主義を掲げて明治中期、ジャーナリズムの巨人と呼ばれた。が、約7年後人々に衝撃を与えた。平民主義から一転、国家主義へ。政治への発言力を強め、彼の新聞社は2度も焼打ちに会い、蘆花は兄へ「決別の辞」を突き付けた。蘇峰は51歳で政界から離れ出版界の指導者となり300冊以上の著作を残した。特に「近世日本国民史」全100巻完成は偉業、彼は文化勲章第1回受賞者だ。

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                         蘇峰の平民新聞社炎上

竹林と茅葺屋根が美しい蘆花恒春園
 蘆花が逝去するまでの約20年間夫妻が晴耕雨読の生活を送った蘆花恒春園は京王線芦花公園駅より徒歩15分だ。竹林に囲まれた茅葺屋根の美しさ。母屋、秋水書院、梅花書屋では文豪、蘆花の当時の生活が偲ばれる。蘆花は同志社に在学したが新島襄の義姪との恋愛を反対され中退、その後兄の民友社へ。気質繊細な蘆花は兄への一方的絶交、懺悔、等、波瀾万丈な心境変化を力とし、弱者への共感を気骨に、「自然と人生」「みみずのたはこと」「不如帰」等多作、名声を博し続けた。世界旅行にも出た。ギザのピラミッド近くで駱駝に乗った夫妻、トルストイ邸を訪問、歓待された写真もある。心臓衰弱で1927年、兄の見舞いを受け和解、その夜永眠した。筆者はこの臨終和解から終焉の美学に覚醒した。

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                            蘆花恒春園、秋水書院

富士山の霊気と蘇峰の鉄石心に覚醒!
 山中湖村の徳富蘇峰館へ。蘇峰は彼の新聞社の焼打ちに2度も会い長男も失った後、別荘、双宜荘で秀麗な富岳を仰ぎ、その倒景の反映する山中湖を眺め、元気な自己を取り戻していったという。「近世日本国民史」100巻をここで完結した。94歳の時の彼の言葉、「衰朽猶存鉄石心」(衰え朽ちてもなお鉄石の心があるゾ!)にはいたく感銘を受け、女子大生だった時の己を悔いた。講演後、「貴方に命名された彩子です」となぜ面会しなかったのだ!判断力欠如が今更ながら悔しい。今思う。蘇峰は人の思惑を気にせず、人生の場面場面で信念に従って生きたのだと。蘇峰の仰いだ富士の霊気を浴び、山中湖面に反映する富士を眺め、彼の愛した山百合を愛でつつ、シニア彩子は「鉄石心」に覚醒した。

                       
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                          山中湖畔にある徳富蘇峰館

(アメリカ、Angle Press. Inc.発行、Weekly Jangle第244回、「蘇峰の愛した山中湖畔と蘆花の愛した芦花公園で覚醒! ~日本~」に修正を加えたもの)


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