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医史跡を巡る旅 №14 [雑木林の四季]

脚気論争~漢洋脚気相撲 前篇

                                     保健衛生監視員  小川 優

明治期、脚気に頭を悩ましていたのは軍だけではありません。大正14年に内務省衛生局のとりまとめた「脚気死亡統計」によると、全国の脚気死亡者数は大正12年には16,702人、明治42年には10,378人にのぼりました。これは最早国民病といえるもので、政府としても真剣に取り組まなければならない問題でした。

明治11年3月、総理大臣伊藤博文は、脚気専門病院の開設を東京府に命じます。開設の主旨に「脚気病ハ亜細亜固有ノ風土病ニシテ本邦ノ人民之ヲ患ルノ尚シ而シテ其病理尚ホ蒙昧ニ属シ治法モ亦タ未タ一定ノ標準ナク年々鬼籍ニ上ル者少ナラズ」(脚気病院第一報告~明治11年)とあるとおり、政府が危機感を抱いていたことがわかります。そして病院設立を急ぐため、東京神田区表神保町二番地にあった英語学校校舎が利用され、7月には開院に漕ぎ付きます。

この病院の特徴は、病人・病室を5つに区分し、当時著名な4名の医師を治療専任委員として、それぞれ治療に当たらせました。4名の医師は、西洋医から2名、漢方医から2名が選ばれています。つまり治療法を比較することにより、より良い治療法を見出そうとしたわけです。こういえば聞こえはいいのですが、時代背景を踏まえた上で、病院の人事選定をみると別の面が浮かび上がってきます。
明治11年といえば、前年に東京医学校と東京開成学校が統合して東京大学が発足、ドイツからミュラー、ホフマン、続いてベルツ、スクリバらを招き、本格的な西洋医学教育が軌道に乗ったばかり、市井の医者といえば、相変わらず漢方医が大半を占める状況でした。ちなみに医術開業試験が開始される前年の明治7年では、医師総数28,289人のうち、西洋医は5,274人で、80パーセント以上の23,015人が漢方医だったのです。西洋化を強力に推し進めたい政府、特に官僚の大勢を占めつつあった東大派閥にとっては、国民にとって身近な医学分野において、漢洋の優劣を決め、西洋医学を主流とすることは急務であったはずです。国民も薄々、脚気病院の開設の裏にあるその真意に気付いていたようで、「漢洋脚気相撲」と呼び、その顛末を興味津々で見守りました。

今回は実際の治療に当たった「治療専任委員」を取り上げます。先に述べたとおり、病室・病人はほぼ50人ずつ4つに分けられ、重傷者のみ6名の区分と合わせ、それぞれ第一区から第五区と呼ばれました。

まずは第一区、担当は漢方代表の一人目、今村亮です。

「今村了庵墓」
本名今村亮、号は了庵。文化11年、伊勢崎藩藩医の家に生まれる。現在の群馬県伊勢崎市。江戸に出て漢方を学び、のちに大阪の花岡青洲にも師事。明治2年(1869)に医学館講師。明治12年には皇太子であった大正天皇の侍医となり、明治15年には東京大学の講師となり、医史科の講義を行った。明治23年、77歳で死去。

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                  「今村了庵墓」~東京都台東区谷中 谷中霊園

つづく第二区担当は、小林恒。肩書は東京府病院第二分局長とあり、つまり西洋医代表なのですが、彼についてはまだ調査が不十分で、詳しいことがわかりません。

そして第三区。脚気治療に経験豊富で、ある程度の実績のある漢方医への挑戦者ともいえる西洋医側から、佐々木東洋です。

「佐々木東洋墓」
天保10年(1839)、江戸本所に生まれる。佐倉順天堂で佐藤泰然に医学を学び、泰然の養子、佐藤尚中の長崎行に同行してポンペにも学ぶ。幕末には幕府軍艦軍医を務める。維新後は開業の傍ら、大学東校(のちの東大医学部)の教官となる。明治10年、西南の役に軍医として従軍、大阪臨時陸軍病院で治療に当たる。

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          「佐々木東洋墓」~東京都台東区谷中 谷中霊園天王寺墓地

大坂の適塾と並んで名の知られた佐倉順天堂に学び、まさに西洋医学の牽引役として八面六臂の活躍をしていた佐々木が、西洋医側の代表として選ばれました。第三区の治療を行うとともに、「但シ遠田澄庵ハ病者ヲ受ルノ最初重症ナリト診定スル時ハ之ヲ謝絶ス故ニ其不治ノ重症ナリト診定シタル者ヲハ第五区ニ受ケ之ヲ治療ス第五区ハ佐々木東洋ノ任スル所ナリ」(脚気病院第一報告)、つまり遠田澄庵が長年の経験上重症と判断し、治癒の見込みがないとした者を第五区に収容して、佐々木が治療にあたったのでした。

「杏雲堂病院」
漢洋脚気相撲の後、明治15年(1882)に神田駿河台に杏雲堂醫院をひらく。のちに杏雲堂病院と名を変え、現在に至る。

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                  「杏雲堂病院」~東京都千代田区神田駿河台

「佐々木東洋銅像」
杏雲堂病院の正面玄関前の植え込みには、佐々木東洋の銅像があります。杏雲堂醫院で脚気や結核の治療にあたる傍ら、東京府医師会会長、神田区医師会会長、内務省中央衛生会委員などを歴任。明治32年、熱海に移り住んで隠居生活に入り、大正7年(1918)死去。享年80歳。

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      「佐々木東洋銅像」~東京都千代田区神田駿河台 杏雲堂病院正面玄関前

のこる第四区が漢方の大御所、遠田澄庵。徳川家定、家茂の奥医師を務め、維新後も、自ら脚気に悩んだ明治天皇の信任が厚かったようです。

「遠田澄庵墓」
文政2年(1819)、下総国佐倉、現在の千葉県佐倉市に生まれる。本名、景山。安政5年(1858)、伊藤玄朴、戸塚静海らとともに脚気で末期的症状にあった将軍家定の奥医師となる。治療の甲斐なく家定が35歳で死去した後、跡を継いだ家茂が長州征伐で大阪布陣中病に倒れた時にも、浅田宗伯らとともに大阪に派遣された。

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                 「遠田澄庵墓」~東京都豊島区南池袋 本立寺墓地

「遠田澄庵墓石銘」
墓石の正面には「通神国手乃墓」とありますが、没年月日が明治22年7月29日であること、側面に遠田澄庵銘があることから、彼のお墓と分かります。

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             「遠田澄庵墓石銘」~東京都豊島区南池袋 本立寺墓地

さて、結果はどうなったか。審査委員のご紹介とともに、次回に続きます。


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