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対話随想 №44 [核無き世界をめざして]

中山士朗から関千枝子様へ

                                         作家  中山士朗

 <鶴>
 私たちは二〇一二年四月から「往復書簡」を開始しましたが、当初、アメリカのオバマ大統領の広島訪問が実現することなぞ、まったく予期していませんでした。
 前回の関さんの手紙のなかに、オバマ大統領の折り鶴のことが書かれていました。
 これはオバマ大統領が広島市に寄贈した手作りの、四羽の折り鶴でした。新聞の記事によりますと、広島訪問直後に原爆資料館を見学した際に、出迎えた広島市立吉島中学校三年の花岡佐妃さん(一四)、私立中島小学校六年の矢野将惇君(一一)に名前と年齢を聞き、二人が英語で答えると、オバマ氏は「ベリーグッド。これからも勉強頑張って」と言って握手し、折り鶴を渡したと記述されていました。
 資料館の記帳には、次の言葉が残されていました。

 ”私たちは戦争の苦しみを経験しました。ともに、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう。“
  
 私が通っていた中島小学校は中島地区にありましたが、爆心地からの至近距離は、中島
本町河畔(平和公園北詰で、相生橋の南たもと)で、約一〇〇メートル、最も遠い距離は、吉島町の南端で約二・四キロメートルでした。中島小学校は、八〇〇メートルほど離れた位置にあったのではないでしょうか。原爆が投下された時、付近一帯は、建物疎開作業で大勢の中学低学年生が出動していて亡くなりました。私の従弟、広島二中一年生であった伊豫五三は、新大橋(爆心から距離五〇〇メートル)の東詰めで被爆し、亡くなりました。その橋の近くにあった、中島新町の母の実家は、建物疎開ですでに取り壊されていました。
 私は新聞を読みながら、七一年の歳月を経て、同じ母校の生徒である矢野君がオバマ氏から折り鶴を受け取ったことも驚きでしたが、中学三年生の花岡さんの写真を見ながら、私が被爆した時と同じ年齢だったことを思い合わせ、私たちがいかに幼い頃から戦争に組み込まれていったかを思い知らされたのでした。
 オバマ氏の広島訪問については、これまで私は率直な感想を述べました。けれども、この折り鶴に託されたオバマ氏の人間としての良心は、確りと伝わってくるのでした。
 
 このたびの表題は、「鶴」にいたしました。
 六月二八日に広島を訪問したオバマ氏が、原爆資料館に寄贈した折り鶴.について書きながら、樫山文枝さんが別府市市民劇場に招かれ、七月二日に別府市内のブルーバード劇場でトークショーが開かれた日のことを思わずにはいられませんでした。樫山さん主演の「孤島の太陽」という四八年前の映画に深い感銘を覚えた大分市の稲田静真さんが、樫山さんに依頼して上映実行委員会を作り、今回の上演に至ったいきさつを新聞で知りました。昨年五月に大分市民劇場が呼んだ劇団民芸「海霧」に樫山さんは出演されましたが、その折、頼んで実現の運びとなり、樫山さんの舞台挨拶が実現したということでした。
 私はその記事を読みながら、オバマ氏の広島訪問と言い、樫山さんの別府来訪と言い、何か運命的な出会いのように思えてならないのです。
 前々回の手紙に関さんが添えてくださった、自然写真家・いだよう氏の「梅雨渓」の写真と「雨の季節は渓流撮影が楽しい。岩も木立も木の葉もしっとり艶やかになって風情たっぷりだ。水嵩も増すので変哲もない川が見応え十分になってくれる〕、この短く、美しい文章を再読しました。そして、私たちの「往復書簡」の底を流れる七〇年余の歳月を経た伏流木が、今や清冽な源流となり、川の上流の風景を形作っているのを感じます。
 一九八五年に広島中国放送が、<被爆四〇周年報道特別番組>として、「鶴」という番組が制作されました。これは、広島一中遺族会、広島一中同窓会、広島大学医学部の協力を得て、「星は見ている」(広島一中遺族会編)の中から、一六人の遺族を選び、日本各地を訪ねるという番組内容でした。広島一中の「追憶の碑」には、建物疎開作業、そのほか学校防衛の任に当たっていて被爆した生徒
  一年   二八七名
  三年    五五名
 その他    九名

の名前が刻まれています。
その時の一一三ページにも及ぶ台本を開いてみますと、原作・インタビューは、私、朗読、ナレーションは樫山文江さんになっています。一六人のそれぞれに樫山さんのナレーションがあり、作品の冒頭と終わりには、出水市に鶴の北帰行の撮影を背景に、樫山さんの朗読が入っているのです。構成は、秋信利彦さんでした。秋信さんは、戦後はじめての天皇と記者団の会見の場で、「原爆についてどのように思っておられますか」と広島の記者として、悩んだ末に質問した中国放送の記者でした。その秋信さんと樫山文枝さん、私の三人は、長い時間をかけてTBSの録音室で採録したのでした。
 
 朗読
  <タイトル前のプロローグ>から
  昭和二〇年八月六日、広島市に原子爆弾が投下されてから四一年の歳月が経った。
  その日、私たちの前から不意に姿を消してしまった大勢の学友は、今どこにいるのだろうか。未だに子どもの死に場所も判明せず、遺骨の一片もない遺族は、今もあの日を生きつづけているにちがいない。その当時、事実として伝えられ、伝えられ方も事実として受け止め、深くは確かめようとはしなかった。それが死者に対する礼儀のように思われた。
 しかし、四〇年経った現在、その事実を深く確かめてゆくと、曖昧な部分が残る。
其の曖昧な部分を明確にすることが死者への供養になるのではないだろうか。
                                              (出水に向かう車中)

 出水市荒崎地区に。毎年一〇月中旬から三月中旬にかけて遠く、シベリアから鶴が飛来してくるということを耳にしたのは、戦後だいぶ経ってからである。
 その後、新聞でニュースを読むたびに、あの日の死者たちの霊魂が鶴に化身して、この世に舞い戻って来たのだと思うようになった。一度そのように思い込むと、それが真実だと確信するようになった。私がそのように思いつづけた理由の一つには、あの日、醜い姿で死んでいった者たちの霊魂は、最も美しいものに化身していなければならないはずだったからである。
 私が実際に出水市に行って鶴の群れを見たのは、今から五年前であった。
                          (鶴の群れ。優雅な鶴)
 鶴が舞う姿は美しい。しかし、その鳴き声は決して美しいものではなく、野性的な声の中に一抹の哀切がこもっていた。あの日の死者たちは、忽然とこの地上から消えていった。
                                (舞う鶴)
 儀式があり人々が哀しむ中で別れを告げたものではなかった。醜く焼けただれた手を虚空に差しのべ、水を求めながら、誰からも気づかれずに死んでいった幾千、幾万人の無念の声を私は聞いたように思った。その声の中に、亡くなった同級生の声も混じっていた。
                             (大空に向かって鳴く鶴)  
<エピローグ>
 私は今旅を終えようとしている。
 私が会った遺族の人たちは、すでに七〇歳後半から八〇代にさしかかっていた。私の両手をとり、あたかも自分の息子が帰ってきたかのように錯覚され、手を震わせた方もあった。
 大勢の息子や孫にかこまれ、穏やかに暮らしていても亡くなった息子の話しになると、声もとだえがちであった。いちように話されたことは、今でも、あの日家を出て行ったときの幼い顔のままであるということだ。そして、一方では、毎年、亡くなったときの年齢に、一つずつ年を加えているのだ。「もう二度とお目にかかることはありませんでしょう。私はよく生きて、あと二,三年です」との言葉をしばしば耳にした。一期一会とは、まさにこのことであろう。私は重い気持ちを引きずりながら、遺族の人たちと別れを告げなければならなかった。
 遺族にとって、戦後は死ぬまで続くに違いない。しかし、私は、死者たちが死者として、肉親の中で生きつづけていることを知り、ふと心が安らぐのを覚えた。
                            (北帰行/遺族の顔)
 やがて時が来て、鶴たちは私の知らない、遠い北の土地にふたたび帰ってゆく。
 私は,夕陽に向けて飛翔する鶴を眺めながら、その日を想像した。すると、私一人がこの地上に残されるような寂しさを覚えた。私がこの世から去っても、鶴たちは毎年一〇月になるとこの地を訪れ、未来永劫に、あの時の悲痛な声でなきつづけるにちがいないのだ。
                     (いよいよ帰る鶴/鶴さかんに呼び交わす)

 以上が、樫山さんに朗読していただいた個所です。そして、この作品は、月間ギャラクシー賞を受けたと聞いています。
 樫山さんがブルーバード劇場に見える日。もしお時間があればお目にかかって三一年前のお礼を申し上げたいと、稲田さんに予めお願いしておきましたが、あいにく空港からの到着時間が二〇分遅れたために、お会いすることはできませんでした。後日、マネージャーの方と電話で話しましたところ、樫山さんは「鶴」の朗読を覚えていて下さったそうです。樫山さんに、私たちの『ヒロシマ往復書簡』Ⅰ、Ⅱ集を送っておきました。


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