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シニア熱血宣言 №82 [雑木林の四季]

終戦の日、甦る記憶

                                       映像作家  石神 淳

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  「たぶん戦争に負けたんだろう」と、何が何だかわからないままに、竹藪を駆け下りて冷たい川に身を身躍らせ、紺碧の青空を仰いだ。
  あの日から71年が過ぎ、俺は80歳の節目を迎えた。
 人生の節目ごとの出来事は、記憶が衰えても、深く脳細胞に刻み込まれ、ある日ある
時、何の脈絡もなく脳裏に浮かんで来る。やがて生命が尽きたら、この記憶も消滅する
のだろうか。いや、とてもそうとは思えないのだ。
  
 2.26事件の翌月に生を授かり、一番古い記憶は、雪解けの庭で泥んこ遊びをしていた。たぶん2歳ぐらいのことだが、耳の中に、小唄勝太郎の島育ち」の蓄音機が、雪の感触が、流行り唄といっしょに残っている。その時、壊したレコード盤で、解けかけた雪をほじくっていた。亡き叔父が「ソダテバ、ソダテバ」と、繰り返し歌っていたと話してくれた。縁側がやけに高いところに見えたから、あれは幻影ではない。
 幼稚園時代は原宿で過ごした。借家に風呂がなかったから、夏は『盥』で行水だ。それがけっこう楽しく、小さな庭先の板塀が記憶に残っている。幼稚園の帰り、道草していたら、見知らぬ老人から、梅酒をご馳走になった。あれは甘く美味でチョーヤのCMを見るたびに思い出す。梅酒をご馳走してくれた老人は、画家だったのだろうか、部屋から縁側に油絵の具の香りが漂ってきた。
 表参道の坂をのぼり、駅前の石橋を左側をおれた奥にあったキリスト協会の幼稚園に通った。竹編みの椅子に穴をあけて足を突っ込んだり、泣き虫の友達をイジメたりして、退園させられた。決定的な理由は、教会の祭壇によじ登って遊んだ罰だったんだろうが、両親から叱られた記憶はない。
 その後、オヤジの転任で板橋の大山に移ったが、数日後、アメリカB17が編隊を組んで東京上空を偵察に来た。たぶん真珠湾奇襲のすぐあとだ。
 家の近くを千川上水が流れていて、釣り堀から逃げた金魚をすくおうとして、危うく川に滑り落ちる危機一髪を、咄嗟に掴んだ一本の草に救われた。あの一株の草がなかった墓の中だ。水の色、金魚の模様、土手の滑りが甦る。
 昭和19年、東京大空襲の夜、東の空が夕焼けのように染まった。空襲警報解除で、やっと掘炬燵に潜り込む。灯火管制で真っ暗な部屋。闇の中で、オヤジが呻くように囁く。「この戦争もう駄目かもしれんな」オヤジは中島飛行機に師範学徒を引率して動員されていた。翌日、新興キネマ撮影所を狙った一トン爆弾の逸れ弾が、大きな魔法瓶のようにチラリと見え、防空壕が逆さまにするような轟音が、赤土ノ匂いとともに全身を震わせ、あわや死んだかとおもった。爆弾は百メートルほど離れた畑で炸裂、隣接の家屋が骨素組だけになった。下町には焼夷弾、工場には一トン爆弾の雨が、連続降り注ぎ、群馬県新里村へ集団疎開を余儀なくされた。
 疎開先では、地元から転校拒否のイジメに遇い、東京に帰るまで毎日自習だったから、11カ月間は登校も勉強も一切なし。先生の姿もなかったから、畑で桑の実を盗んだり、川で砂モグリを手拭いで捕まえ、風呂の焚き竈に乗せ焼いて喰った。塩は、目を盗んで、台所から失敬。毎日がグチャグチャの沖縄百号(さつま芋)と、高粱(コウリャン)飯だから、腹がへるなんてもんじゃない。。コウリャンは満州に入植した開拓者が、不毛の土地に耕作した赤い粒で、鳥のエサのようなものだから、農家の倉先から、鄙びたトウモロコシや干し柿を失敬しても、咎める先生は居なかった。
 そんな集団疎開生活で覚えたのは、ただ一つ。女子が疎開していた寺との伝令役を買って出て身につけた、自転車の三角乗りだけだった。
 ある日、結核のツベルクリン反応の注射があり、その後、注意を無視して、例のごとく川で水浴びをやらかしたので、天罰覿面。
 右腕が大根のよに膨らみ化膿して、前橋病院に三カ月ほど入院した。ツベルクリン反応注射では、5~6人が入院し一人が死亡したようだ。私が居た寺からは、私一人だけだったが、東京の両親にも知らされなかった。
 前橋の病院を退院した日の夜、大空襲で病院は全焼した。退院が一日遅れたら、焼夷弾の猛火で焼かれ、これまた九死に一生だったかも。
 退院した夜、担任の部屋で夕食を摂っていると、ガラス障子の向かい側にある竹藪の空が真っ赤になっているのに気づいた。それが前橋空襲だと知ったのは数日後のことで、人生の生死の境目は、紙一重のところにあるもので、それが運命と言われるものだろう。
 戦後も野性児のような疎開先での暮らしが続き、年の瀬が迫まった東京に帰り着いたのだが、列車が荒川を渡ると、窓の外が一段と暗さを増し、裸電球の灯が、暗闇のなかに一つ、また一つ。闇の中に透けて見えたのは、空襲で焼け残った風呂屋の煙突だけ。上野駅に近づくにつれ、何やら焼け焦げ臭い匂いが車内に伝わって、緊張して小さな手を握りしめたものだ。池袋の街も、暗さと焦げ臭さに包まれていて、出迎えの母の呼び声をたよりに、ヒヨコのようにその胸に飛び込んだ。
 終戦の日に思いを馳せ、紺碧の空を仰げるのは、あと何年だろうか。 


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