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対話随想 №35 [核無き世界をめざして]

関千枝子から中山士朗様

                                   エッセイスト  関 千枝子

 三月五日、奈良県生駒市で行われた『広島第二県女二年西組』の朗読劇に行ってまいりました。前に書きました大阪谷町劇場で行われたものと、同じ台本なのですが、今回はこの作品の上演の仕掛け人・熊本一さんの地元・生駒で、熊本さん自身の演出、劇場も広いということで私も大いに張り切って伺いました。
 生駒といえば、万葉の昔からの由緒ある地で、懐かしいような気さえしますが、今の交通の事情は私にはさっぱりわかりません。しかし、この際お会いしておきたい方と連絡をつけ、四日に京都から入り、奈良で一泊、五日に劇を見るという忙しい(充実した?)日程をたてました。
 八時四〇分品川発の「ひかり号」に乗って一路西へ。一一時過ぎ京都駅着、能登原由美さんに会いました。能登原さんは音楽学の専門家、「ヒロシマと音楽」が専門です。昨年一一月『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』(春秋社)という本を出されました。この本を出す前に、私に戦後すぐ広島女専や広島第二県女で教えられた小寺きよ先生のことを聞いてこられ、思い出話など話しました。お会いするのは初めてです。
今回の本はヒロシマがテーマの音楽のことで、演奏のことは載っていません。次回に演奏のことを本にしたいといわれるので、お会いしたのです。私の話など女学校低学年時代の、ほんの小娘の記憶で大したことはないのですが、私なりの思い出はいろいろあります。殊に思い出深いのが戦後すぐ一九四五年の一一月(と思いますが)、広島青年文化連盟(大学や高等師範などの生徒達が作った会で、峠三吉さんがリーダーだった)の最初の活動が音楽会、宇品の凱旋館で宅孝二のピアノ演奏をやりました。久しぶりの音楽会、あの感激忘れられません。
能登原さんの本のことですが、私はヒロシマ関係の音楽の多さにびっくりしました。そして、それが殆ど知られておらず、少なくともすぐメロディが出て来るのは「原爆を許すまじ」だけなのにも我ながらびっくりしてしまいました。なお、非常に古く、しかも本格的なシンフォニーは一九四九年フィンランドのエルッキ・アートネンという方のつくった『交響曲第二番「ヒロシマ」』なのだそうですが、私はこの曲のことなど全く知らず、ただびっくりしてしまいました。
 能登原さんとお会いしたのち、河勝さんと会いました。河勝さんは、コールサック社といろいろありましたがとにかく「原爆地獄」の日英版を作り、昨年刊行。今、新しいものを作ろうとしています。中心が「ヒバクシャの絵」になるのは前と変わりませんが、今度のテーマは「少年少女」になるようで、これまた不思議ですが、私の本(『ヒロシマの少年少女たち』)とテーマも似てきたわけです。河勝さんの御宅に伺い、もう八分通り出来上がった画像をパソコンで見せていただきました。
 私『ヒロシマ往復書簡』の第一集を送っているはずなのですが、不思議なことに不着で、一冊持参していた本をお見せしたのですが、河勝さんすぐ目を通し、河勝さんに関し、間違いが書いてあると指摘されてしまいました。私は河勝さんのことを、一九五六年に松下に入り、ドイツ駐在になったという風に書いているのですが、一九五六年にドイツに行き以来五〇年近くドイツにいらしたのは事実ですが、初めは上智大学を卒業したあと、大学の関係でドイツに行き、そこで松下の仕事をするようになったので、松下は後なのだそうです。
 河勝氏は松下ドイツの元社長など言われるのが好みではないようで、ご自分の紹介には「詩人」を使っているそうです。上智に行っている頃、早稲田にも入って早稲田の童謡研究会で童謡を書いたこともあり、「詩」はずっと書きつづけていたそうで、企業の人でありながらいまだに「夢見る」ロマンティストのような気がします。
 五日の日、生駒の「はばたきホール」での公演に河勝さんも来てくださいましたが、河勝さんの紹介で、「核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会」の代表世話人の三宅成恒さんも公演に来てくださいました。反核医師の会は、外国に行かれるときには外国人の原爆の怖さを説明するのに、分かりやすい河勝さんの本を持って行ってくださるそうで、河勝さんに言わせれば、実にありがたい「読者兼スポンサー」だそうです。三宅さんから『医師たちのヒロシマ』という本を頂きました。一九九一年に出した本を二〇一四年に増補復刻したものですが、原爆直後の京大の医師、医学生たちが広島に入り、診療、原爆医療者として調査し、その一部が大野陸軍病院で枕崎台風の被害に遭い亡くなるのは有名な話で私も知ってはおりますが、その頃の貴重な記録です。帰りの列車の中で夢中になって読みました。こんな本が復刻刊行されて本当によかったですね。
 さて、「広島第二県女二年西組」の朗読劇は会場が大きすぎて(四〇〇人以上は入れる)一部二部とも満席とは言えませんでした。でも、俳優も大阪のときと同じく、熊本さんのシニア演劇塾の卒業生たちの素人俳優たちで、大変熱演してくださいました。ドラマ上演後、話し合いの会を持ちましたが、大勢の方が残って下さり、みなさん、原爆の惨禍も、靖国神社のこともきちんと受け止めてくださったように思えました。
 朗読劇に、「西組」の友のエピソードを数人入れていますが、その中に玖村佳代子さんのことを入れました。これは、何とも不思議なことに覚えました。この朗読劇を書いたのは四半世紀前で、その時はまさかこれを奈良県の生駒で上演するなど夢にも思いませんでした。玖村さんのお兄さんは後に奈良女子大付属高校の教師になり教頭まで勤めた方です。原爆の時「水、水」と水を求めて死んだ人のことを思い、八月六日には一滴の水も飲まなかったという方です。若くして亡くなられ、玖村家はもう誰も残っている人はいません、ついそんなことを舞台であいさつのとき申しましたら、あとから女の方が来られ、「私は奈良女子大の卒業生です。教生で付属高校に行った時、玖村先生にお世話になりよく覚えていますよ」と言われました。 
 朗読劇に関西の大女優.河東けいさんもわざわざ神戸から来てくださいました。一九九〇年、関西芸術座の朗読劇の時出演して下さり以来、年賀状のやり取りを欠かせません。九〇歳でお元気、老いたと言われますが、まだまだ意欲十分のように見えました。凄い!
今度も、また、人間のすばらしさ、不思議な縁を感じる旅でした。
 追記  この文章を書いたあと、熊本さんから電話を頂きました。計画通りいかなかったこともあるが(観客動員のことでしょう)、とにかくいつもの公演と違った反応があった。らくらく塾の客は芝居好きな人々で、プロパガンダが好きな人ではないが、とても感動したという方が多かった。そしてある会から公演してくれという申し込みもあったそうです。普通の集会で、劇場での公演ではないのだそうですが、早速の手ごたえに熊本さんはとても喜んでおられました。私も、ホッといたしました。


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