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対話随想 №19 [核無き世界をめざして]

関千枝子から中山士朗さまへ

                                   エッセイスト  関 千枝子

 江刺さんの結びの言葉、原爆という巨大なものに向かって私たちのできることの微力さ、痛感します。原爆と文学のことについてはもう少し考えてみたいし、広島の、世界文化遺産に登録申請をしている方々にもできたらお会いしてお話ししたいと思うのですが、それはまずおいて、今のお話しを少し。
 この時期、私、スケジュールとしては、「原爆の季節」で、いろいろなところでお話しする機会が多いのですが、今年は「七〇年」ということもありまして、ちょっと手ごたえが違う感じもあります。先日行った私立の女子中・高校。とても熱心に聞いてくださり、講演の後も、何人かの生徒と四〇分ばかり懇談の機会に恵まれました。高校二年、三年の生徒は、来年の参院選挙には一票の権利があります。しっかり考えなくては、と言ってくれました。その席では一言も質問しない生徒がいたのですが、帰りがけに「私たちの曽祖父たちが戦争犯罪を犯した、それに私たちが責任あるのでしょうか」と思い詰めたように聞いてくれました。私は、まず、ちゃんと勉強して正確な事実を知ってください。目をそらさないで、知ってください、と言いました。この学校は平和教育にとても熱心で、『つくる会』の教科書など使っていませんから、彼女、きちんと事実を知ってくれると思います。「事実をきちんと知ったら、ああそんなことがあったのだ、だけでなく、自分たちがどうすればいいか、きっとあなたは自分で答えを出せるでしょう」と言いました。私たちが七〇年も前の戦争のことや、原爆のことを懸命に話すのは、歴史をきちんと聞き、次の世界に継承してもらいたいからよ、と。
 この学校、東京の山手にあって、五月二五日の空襲で丸焼けになり、とても苦労しています。キリスト教関係の学校でいじめられたようです。「自分たちの学校の歴史ももっと勉強してごらんなさい」と勧めておきました。
 ついこの間は、私の属している生協の、広島、長崎研修ツアーの事前説明会に行ってきました。生協は原爆のことに熱心で、毎年この研修ツアーをやり、私何年もうかがっているのですが、今年行ってみて小学生が多いのにびっくりしました。例年中学生連れのおかあさんが結構多いのですが、今年は小学生がたくさん。驚きましたがいつもはもうわかりきっていることだと省く、ウラニウム、プルトニューㇺの話からリトルボーイ、ファットマンの話からいたしました。その小学生の中で一番前の席で聞いていた女の子がいるのですが、「図書館で『はだしのゲン』を見てこんな大変なことがあったのだ」と興味を持ち、自分がお父さんに頼んで、ツアーに申し込んだ」と言います。そして、私の本(『第二県女・…』)も読みたいと言います、小学校四年というので、どうかと思ったのですが、相当読書力がありそうなので、「分かるところだけでもいいからね」と言いながら渡しました。なんだか、こんな小学生が多いと、楽しみですね。
 それから今年も建物疎開作業で死んだ学徒の碑巡りをいたしますが(YWCAの主催)、昨年来れなかった女子中学生が来てくれるはずです、彼女、去年は広島の八月五日には珍しく大雨で、学校から危ないからやめろと禁じられて来れなかったのですが、いろいろ質問してくれて、メールなどでやり取りし私の本も送り、それで、彼女は、夏休みのレポートを書きました。中二になった今、彼女は英語が得意で中学生の英語弁論大会に出てみる、題材はもちろん広島です。大いに褒め、励ましましたら、彼女は今年こそフィールドワークに来たいと言います。戦争のことを知らない世代と言いますが、こんな少女たちに会うと楽しみです。出会い、感心する子どもに女性が多いのも事実、広島修学旅行も何とか持ちこたえておるのも女子の私立の学校が多く、男子校からお呼びがないのは残念ですが。
 今年の七日には広島大学関係で学生(留学生も多い)相手で、「原爆とジェンダー」の講義もしなければなりません。この問題、なかなか皆わかってくれないのですが、この問題の一つに「被害。同情の女性化」の問題があります。私が中山さんのご迷惑、いやな思いをさせているとわかりながらしつこく伺った、火傷、ケロイド、それが「原爆乙女」になる(男性の被害は無視)という問題でもあります。真杉静枝さんの「原爆乙女」救援運動のこともあり、いろいろ考えております。
 もう一つ驚き。前に書きました国泰寺高校の文芸雑誌に載った「原爆関係」の「小説」のことで、原邦彦さんの体験らしいが、書いたのは宮本恭輔君、ということを、前に書いたと思いますが、宮本恭輔さんの広島大学医学部の後輩の女性から連絡が入り、今度広島で会うことになりました。文学青年の宮本君、御父さんが東京にやる金はない私学もだめというので広大にしか行けないのなら、一番難しいところに入ってやると医学部に入ったのですが、卒業して広島の病院で働いているとき、この方の妹さんが白血病になり入院、宮本さんが医師としてよくしてあげたらしいのです。その後、この女性は広大医学部に入り今、緑井の病院で働いています。広大医学部の名簿で宮本さんの住所が空欄になっているので、ネットで宮本恭輔というのを検索してみたら、知の木々舎のブログに私の書いた文章の中に宮本さんのことを書いてあることが判明したというのです。驚いてしまいました。ネットでそんなことまでわかるのかという驚き。私も、全く知らない宮本さんの若い医師時代のころのことを聞きたいし。思わぬ出会いも生まれました。


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