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対話随想 №17 [核無き世界をめざして]

中山士朗から関千枝子様へ

                                        作家  中山士朗

 長岡氏が遺稿類を預かり、茶色いしみのある障子紙に鉛筆書きされた二枚の草稿を発見したとき、瞬間、『屍の街』の草稿だと直感したことは前回に書きました。
 それについて、長岡氏は、次のように語っています。
 <数年前までは『屍の街』の原稿類すら行方不明だとされていたから、それに先立つ短い新聞原稿「海底のような光」の原稿が残っていようなどとは、よろず早合点しがちな私ならずとも考えにくいことであった>。
 そして、定本『屍の街』(冬芽書房版、一九五〇年五月)の序で、大田洋子が書いていることを紹介しています。
 <当日、持ち物の一切を広島の大火災の中に失った私は、田舎へはいってからも、ペンや原稿用紙はおろか、一枚の紙も一本の鉛筆も持っていなかった、当時はそれらを売る一軒の店もなかった。寄寓先の家や、村の知人に障子からはがした、茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらい、背後に死の影を負ったまま、書いておくことの責任を果たしてから、死にたいと思った>。
 これは、『屍の街』の草稿ではなく、「海底のやうな光」のそれだったのです。
 しかし、この『屍の街』の原稿は、長岡氏が中川このみさんから遺品を預かった一九七七年一〇月の二年前に、『屍の街』の原稿が発見されたことが、一九七五年八月八日付け「中国新聞」の《広域版》に次のように報じられていたことを長岡氏は伝えていました。 

<混沌(こんとん)と悪夢に閉じ込められているような日々が、明けては暮れる」――。「屍の街」は、こう書き出されている。大田洋子は広島市、白島九軒町で被爆し、右ほおや耳にけがをした。近くの河原で野宿した後、広島県佐伯郡佐伯玖島まで逃げのびて「屍の街」を書いた、と言われている。このとき、一緒に避難した実妹の同県安芸郡府中町沖、保険外交員中川一枝さん(五六)が原稿を受け取ったのは、ことし一月。東京都中野区、白鷺二丁目の旧大田家に住んでいる中川さんのメイ山岡伸子さん(四四)が書簡や著作とともに送って来た・・…>。

 しかし、その原稿が発見されながら、地元文学者の間でもほぼ放置されたままであったらしい、と長岡氏は推察し、
 「『屍の街』が出版されるまでの経緯を一脈しのばせるし、さらに死後も恵まれぬ大田洋子とその作品のありようを象徴しているようであって、私の心は慰まぬのである」
 と述懐している。
 長岡氏は『屍の街』の原稿について、「このような生原稿を、私はこれまでに見たことがないし、これからも見ることはまずないだろう。そのような生原稿、と言うのは太田洋子の『屍の街』のそれであって、私がその実物を見る機会があろうなどとは、思いもかけぬ成行であった」と語っていた。
 それは、使われた用紙が、「週刊朝日原稿用紙(二〇〇字)茶ケイB5版」、「広島文理大学 池田用箋(茶ケイ)、「コクヨ原稿用紙」(A4版、四〇〇字)、「ワラ半紙大」、「ワラ半紙小」、「TOYO原稿用紙(四〇〇字)セピアケイ」」、「進徳高等女学校作文用紙(B4版、四四〇字、緑ケイ。両面使用)、「ワラ半紙片」と八種類にもおよんでいたからである。
 <いかに物資のないころとは言え、それだけの凄まじい気迫で『屍の街』は書きつがれていたのである>。
 <いずれにせよ三十年前の資質も悪い、今は色もかわりかけているその生原稿からは、筆者大田洋子の、当時の切迫した息づかいが、それだけは生々しく伝わってくるのである>。
 その最終ページには、<二十年十一月>と書かれ、<終>とあった。この生原稿は、痛みの激しい濃い茶色の紙袋に入れて保存されていたが、この生原稿の前半、大田洋子が自筆でマス目を埋めている部分の、それ以前の草稿の所在は不明であった。
 関さんが指摘されたように、八種類の原稿用紙に刻まれた文字こそ、後世に伝えるべきだろうと思いました。
 長岡氏が存命ならば、その生原稿がその後どのような経過をたどったかを知ることはできたでしょうが、亡くなった現在では、如何ともしがたいことです。次に、関さんが手紙のなかで、大田洋子は広島では良く思われていなかった、という意味のことを書いておられましたので、長岡氏、江刺さんお二人の著書に書かれていた事柄から推察してみたいと思います。
 その前に、長岡氏が(『受験アドバイス』七五年八月)に掲載した「原爆を描く――大田洋子の場合」の中の文章を引用しておきます。
 <大田洋子は別の作品を書こうとする。すると<頭の中に烙印となっている郷里広島の幻が他の作品のイメージを払いのけてしまう>。そして<書くためには思い起こさなくてはならず>、思い起こせば体を、心を痛めるのであった。
 原爆を当事者が描くとはそういうものである――ということは、原民喜の晩年の作品、「夏の花」と表裏の関係にある「鎮魂歌」に見られる錯乱のさま、あるいは峠三吉が『原爆詩集』一巻をまとめ上げる前後からの、ほとんど自殺に等しい体の動かしようからもうかがうことができると思う。
 そこには、由来受感の鋭い作家の、三者三様の業(ごう)を認めることもできようが、少なくとも原爆を体験せずにいたら、原も峠も大田も、よほど異なった生き方を選べたに違いないのだ。
 世間の口はさがない。大田洋子が原爆を描き有名になればなったで、「原爆を売りものにする」という評判が跳ね返ってきた。そして世間もジャーナリズムも移ろいやすい。
 一九五四年からのめざましい原水爆禁止運動の昂揚には背を向けるように、大田洋子は次第に心境小説風な領域へと傾斜してゆく、そうしても原爆から逃げられようはずも内がせめて物理的な、特定の居住空間からは逃れようとでもいうように、大田洋子は晩年、半ば放浪に近い旅をすることになる(後略)>。
 大田洋子は、ジャーナリズムからは次第に敬遠され、恵まれることなく、一九六三年一二月、取材中の旅先福島で心臓マヒにより急逝。享年六一でした。

* * * * * * * *

 今回、対話随想17の2を加えるという楡のことをさせていただきます。というのは、中山宇治の17とほとんど入れ違いに、神奈川近代文学館が2000年原爆文学展を行ったとき、問題の大田洋子の草稿が展示されたことが分かったからです。随想の途中ですが、関千枝子の手紙を17の2として挿入させていただきます。なお中山さんお手紙は、この後も続きますが、それは対話随想18として次回に掲載させていただきます。なお、この草稿は、近代文学館の目録に掲載されています。この写真も入れますので、ご覧下さい。

対話随想17.jpg

関千枝子から中山士朗様17の2

                                            エッセイスト  関 千枝子

 実はいろいろ書きたいことがあったのですが、例の大田洋子の「海底のような光」の草稿現物の写真を見ました。ほかのことは、全部次にまわしまして、とりあえずこの話を。
 何度もお話ししている竹内良男さん(元教員で広島修学旅行に熱心だった方)、このごろ、「フィールドワーク主宰者」を職業肩書きにしてもいいような活躍で、数多く、フィールドワークを行っています。この五月十六日に「原爆と向き合った三人の文学者をたどる旅」をした(例のユネスコ世界遺産に申請した三人の原資料に関連して)のですが、四〇何人もの参加で大ツアーだったようです。
 その配布資料(立派なパンフです)を送ってくださったのですが、それを見てびっくりしてしまいました。大田洋子の例の草稿の写真が載っているのです!
 この資料は『ヒロシマ・ナガサキ 原爆文学展~原民喜から林京子まで』(神奈川近代文学館 二〇〇〇年一〇月一七日から一月一二日)の目録のコピーです。その大田洋子のコーナーに、まぎれもない、あの大田洋子の草稿の写真が載っています。これは、文学館で実物が展示されたのに、違いないと思いました。なお、今度文化遺産への登録申請運動で評判になった原民喜のノートは、ありません。おそらくこの後になって、原民喜の甥の時彦さんが、持っていることが「広島文学資料保全の会」の方の、知るところになったのでしょう。
 あの二〇〇〇年の神奈川近代文学館」の原爆文学展のことはよく覚えています。まだ私が横浜にいるときだったのですが、内容には少々不満があったこともよく覚えています。しかし、考えてみますと、日本の「文学館」で原爆をテーマにしてくれたのは、この時だけだったのではないかと思います。その意味で本当に貴重なものだったのではないか、と。
 それからこの目録を見ますと大田洋子のもの以外にも「原資料」が非常に多く、この時代、そんなものがいっぱいあったのだということが分かります。その時展示された「原資料」どうなってしまったのでしょうね、
 竹内さんが、「原爆文学展」のことを覚えていて、目録から、資料をつくっていただいたことにも感動しました。実はフィールドワークの前に、私は、なぜあの三人だけを遺産に登録するのかと、大分ぶつぶつ言いまして、竹内さんはそのことを「広島文学資料保全の会」の方に伝えていただいたのですが、保全の会の方は、遺族が資料を出さない=遺産の価値,著作権?など、「それ以前」の問題があるような話でした。私、漱石や鷗外ならいざ知らず、原爆作家のものなど、貴重な資料は公的保存しないと、作者の(縁者)の死後、雲散霧消くず扱いされると思いますが。それに、広島の人たち、広島から外に出て、広島以外で活躍している人には、割合冷たくて、たとえば、中山さんのことでも、あまり知らないのではないかと思ってしまうのですが。
 そんなことを考えながら、この大田洋子の「海底のやうな光」を「見ると」、これを書いた時期の「凄まじい」生活の様子もしのばれます。そして私自身が、この草稿を展覧会で見た事を忘れていたことに気づき、大いに反省しました。
 また、目録をさらに詳しく見ると、例えば正田篠枝の草稿などの展示されていますが、これは広島平和文化センター蔵とあります。そうなるとますます、「広島文学資料保全の会」の言うことが疑問に思えるのですが。
 原爆直後、まだ人々が、原爆のことを冷静にいえないとき、文学者たちがまず、書いた。
このことの意味をもう一度考え直したいと思います。


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