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丸木美術館から見える風景 №31 [核無き世界をめざして]

アメリカン大学「原爆の図展」

                  東松山市・原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣

6月2日(火)
 《原爆の図》6点の梱包・搬出日。午前10時過ぎに美術運送スタッフが丸木美術館に来館し、作業がはじまる。ふだんは地味な作業なのだが、この日は多くのテレビカメラや新聞記者が見守るなか、着々と梱包が進んでいく。カメラのシャッター音が一斉に響く一番のハイライトは、屏風の画面のあいだに薄紙を差し込む瞬間だった。アメリカへ渡る前には木箱に入れるが、美術館からの搬出はボール箱の状態でトラックに積み込む。スタッフや記者たちが見送るなか、《原爆の図》はアメリカへ出発していった。平和の鐘を作品の数だけ6回鳴らす。大勢の人と出会い、無事に帰ってくることを祈るばかり。この日の様子は、午後6時からのNHK総合テレビ「首都圏ネットワーク」と、午後9時半からのテレビ埼玉「NEWS930」で放送された。静かになった館内では、夕方遅くまで「発掘! 知られざる原爆の図」展の展示作業。高野山成福院などから借りてきた壁画は、壁いっぱいを使った迫力ある展示になった。

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6月8日(月)
 朝6時半に茅場町の日本通運関東美術品支店へ。《原爆の図》の入った木箱を積み込み、トラックに同乗して成田空港へ向かう。空港の広大な倉庫の中で、フォークリフトで運ばれていく木箱。鉄板の上に作品をすべて乗せた後は、透明なラップでひとつにまとめ、上から網をかける。手際よく、一時間ほどで作業は終了。あとは計量し、乗客の荷物の総重量とのバランスを考えて飛行機のどの位置に乗せるかを決めるので、見学はここまで。出発ロビーでプロデューサーの早川与志子さんや写真家の宍戸清孝さん、広島平和記念資料館の坂本美穂子さんらと合流する。11時間のフライトを経て、無事にダレス国際空港に到着。入国審査を済ませると、米国の美術品輸送業者マスターピースのスタッフが待っていて、輸送用トラックまで案内してくれた。倉庫内の荷解きを近くで見学し、輸送用トラックに同乗。さらに1時間ほど走って、ワシントンD.C.の郊外にあるアメリカン大学美術館に到着した。3階の会場には、すでに《原爆の図》を展示するための白い台座ができあがっている。

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6月9日(火)
 午前10時にホテルの送迎車に乗って、アメリカン大学美術館へ向かう。いよいよ展示作業のはじまり。美術館では同時に5つの企画展の準備が進んでいて、アメリカン大学美術館の展示チームはとても忙しそうだったが、屏風の扱い方を説明すると、手際よく作業を進めてくれた。まずは第1部《幽霊》から作品を開く。台座の長さは約7m。奥行きが浅いので、丸木美術館に比べると屏風の傾斜角度が広いが、台座に固定するので大丈夫だろう。展示室は3/4円形状で、天井の高さは約5mと高め。白い壁に《原爆の図》の屏風はよく映えるが、展示の難しい空間。第2部《火》の屏風を開いて炎の描写が目に飛び込んできたときには、思わず朱色の鮮やかさに声が出そうになった。会場に入った瞬間に向き合うよう展示しているので、強い印象を与えられるだろう。丸木美術館とは違う雰囲気で、現代美術の作品のようにも見える。

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6月10日(水)
 午前4時(日本時間午後5時)台のNHKラジオ第1放送『先読み! 夕方ニュース』に電話出演。以前広島放送局にいたという黒崎瞳キャスターの紹介で展覧会について話す。午前中に美術館に到着すると、NHKと広島テレビの取材が来ていたので、《原爆の図》をまわりながら作品解説。そのうちに、歴史学者のピーター・カズニック教授も姿を見せ、毎日新聞の取材に応えていた。展示室には照明を調整するため高所作業車が登場。展示責任者のブルースの指示を受けて、照明を調整するのはザック。息の合った2人の作業は、見ていて安心できる。自然光が後ろから差し込む場所もあって照明は難しいが、画面の色をどう美しく出すか、一番見せたい部分はどこかと考えながら調整する様子が伝わってきて、頼もしく見えた。夕方にはAP通信の記者も来場。「原爆の図展」のニュースは世界に配信されることになった。この日から広島平和記念資料館の一行も現地入りし、夜は市内の繁華街で会食。開幕が近づいたという実感がわいてくる。

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6月11日(木)
 午前中は広島市の一行とともに、現地在住のボランティア・神田貴央さんに案内されてスミソニアン国立航空宇宙博物館別館に展示されているエノラ・ゲイを見に行く。B-29の実物を見るのは初めてだったが、想像を絶する巨大さに圧倒された。両翼の長さは43m。空襲の際には、この大型爆撃機が大編隊を組んで現れたのだから、市民の絶望感はいかばかりだったか。エノラ・ゲイに近づいてみると、ちょうど団体向けのガイドがはじまったので、それとなく聞き耳を立てていたが、解説は淡々と原爆投下から戦争終結までの事実が語られるのみ。被害の大きさなどは一切説明に出てこなかった。それは展示されていた解説パネルも同様。あくまでキノコ雲の上からの視線、勝利をもたらした象徴なのだということをあらためて感じる。午後はアメリカン大学美術館へ移動して、共同通信社と読売新聞の取材を受ける。会場の壁には展覧会のロゴも貼りだされた。夕方には、日本から小寺理事長夫妻も到着した。

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6月13日(土)
 ついに原爆の図展がはじまった。開館と同時に、少しずつ来場者が現れる。1995年に「原爆展」の中止問題で揺れたスミソニアン航空宇宙博物館の元職員も来場し、《原爆の図》を素晴らしいと褒めてくれた。夕方になるにつれて会場はいっぱいに。午後4時半からのオープニング・セレモニーで、早川さんは「《原爆の図》は、人を圧倒する力を持ち、ドラマ性がある作品です。私は初めて見た時に、一目惚れしました。絵画を見て全く言葉を失ったことなど、これまで一度もありませんでした。私は、この素晴らしい芸術作品が描いている真っ赤な火や、負傷した肉体の中に、“命”を発見しました。苦しみもがきながら、それでも、必死に生きようと闘っている人間の姿が見えたのです」と力強く語った。そして、「《原爆の図》をご覧になる時、そのひと筆ひと筆の中に存在する、丸木夫妻の平和への想い、人類を核競争の狂気から救いたいという願いを、想像力を持って、あなたの、心の目で見て下さい。ふたりの声を、あなたの、感受性のある耳で聞きとって下さい」と会場の人びとに訴えかけた。
 セレモニーの後、カズニック教授のもとに、原爆を積んだエノラ・ゲイが飛び立った飛行場のあるテニアンで通信兵をしていたという九四歳の退役軍人が詰め寄る場面もあった。原爆投下の歴史認識をめぐる衝突か……と、たちまち記者が取り囲む。しかし、激しい討論にはならず、やがて彼は第13部《米兵捕虜の死》の前で、倒れるように座りこんでしまった。再び記者に囲まれ、「私がこの絵のようになるかもしれなかった。日本は中国でなにをしたのか」と応える老人。彼を展覧会に連れてきたという、友人の八五歳の元沿岸警備兵は、そのかたわらで「この絵は素晴らしい。人間の想像力には限界があるから、絵が大きな役割を果たすだろう」と語っていた。第2部《火》の前では、若い母親に連れられた子どもたちが、じっと絵を見つめている。絵の前に立つという「体験」を通して、米国の人たちの心もさまざまに揺さぶられているのだろう。絵を見る人たちの背景も、受け止める思いも、決してひとつに束ねることはできない。NPT再検討会議が国際政治に翻弄されて決裂した直後にあって、せめて《原爆の図》は、言葉や民族、政治の境界を越えて、それぞれの人の心に大切なものを手わたすことができないかと考える。

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6月14日(日)
 前日のオープニングで早川さんのスピーチに感動したというレバノン出身の画家に誘われて、彼のアトリエを訪れる。米国社会が内包している矛盾を絵画で表現する仕事を続けている彼は、「《原爆の図》にとても共感した。これは政治ではなく人権を描いた作品だ。ワシントンD.C.にはホロコースト博物館があるというのに、なぜ原爆博物館がないのか?」と叫んだ。その後、美術館に行くと、昨夜憔悴して帰宅したであろう94歳の退役軍人が、意外にも一人で再び会場に姿を見せ、じっくりと絵を見ていた。彼は何を見たのだろうか。彼の心にも命とは何かを問う想像力は届いただろうか。彼の後ろ姿からは、少なくとも「見るに値しない絵」とは思っていないであろうことは、伝わってきた。絵を運んできた私たちも、先入観を捨てて、展覧会で何が起きるかを見届けなければならない。午後は、次の展覧会の交渉のため、ボストンに飛行機で移動する。

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【原爆の図丸木美術館からのお知らせ】

●企画展「福島菊次郎写真展 原爆と人間の記録」
2015年7月18日(土)~9月12日(土)
特別展示「発掘!知られざる原爆の図」展
開催中~9月12日(土)


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