SSブログ

立川陸軍飛行場と日本・アジア №115 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

航空本部技術部機が振りまく煙幕剤で大混乱・炎のジャーナリスト操縦士に

                                 近現代史研究家  楢崎茂彌

 戦後70年に当たる今年、「第3回三多摩平和交流会」を7月4日・5日に立川市柴崎学習館で行います。今回は、空襲犠牲者への哀悼の意を表すると同時に二度と戦争を起こさせない意志をこめて、現在分かっている三多摩地域での空襲犠牲者1597名の名簿を初公開します。亡くなった方々一人一人にはお名前があります。犠牲者を数字で表すのは人間の尊厳を冒すものだと考え、敢えて名前を公開し、その方々の前で、不戦の誓いを新たにしたいとこの企画をたてました。若い世代の企画で戦場ジャーナリストの志葉玲さんの講演やシンポジウムも企画しています。是非ご参加下さい。

 航空本部技術部機が振りまく煙幕剤で大混乱
 1931年3月8日、代々木の練兵場で行われた陸軍記念飛行演習で、立川陸軍飛行場から飛んできた八八式偵察機が会場に大混乱を巻き起こします。「東京朝日新聞」(1931.3.9)は次のように報じています。
115-1.jpg“八日代々木練兵場行われた陸軍記念飛行演習で、午前十一時十分頃航空本部立川技術部の八八式偵察機が渋谷方面から飛来して練兵場中央二百五十メートル上空から当日呼び物の煙幕を見事展張したが、この時放射した煙幕剤(煙化サルボン酸を主剤とする)は当然空中で気化する可きはずが、一部気化せず噴霧状態になってあたかも風下に当たっていた練兵場の岡部ケ池、なまこ山付近一帯渋谷神宮通り付近に詰めかけていた群衆の上に降りかかった。なにしろ当日は練兵場内外観衆実に二十万と言われ、煙幕剤の降った岡部ケ池、なまこ山付近は群衆で黒山を築いていたので、大混乱を呈した。身体にかかった者は蜂に刺された様な痛さと共に火傷して火ぶくれとなり、着物にかかったものはプスプスと焼けて穴があく有様で、数え切れぬ負傷者が出来、あたかも日曜日のことで子ども連れが多く子供は泣きだす、中には目にかかった人もあったが、大部分の者は軽傷のためそのまま帰宅し、そのうち1,2人の人が演習の終了と同時に演習委員に「何かかかって火ぶくれになったが、大丈夫でせうか」と申し出て来た。これを聞いて陸軍側は始めて煙幕剤が気化せず降ったものとわかり非常に驚き、委員長の小笠原大佐は直ちにこの旨を陸軍省全般に協議すると共に渋谷憲兵隊に届け出て、各警察や付近の医師にも手配し、負傷者が出た場合の手当法を通告して負傷者の発見に努めたが、ほとんどわからず当日の群衆等から推して、負傷者は数百名に上る見込みである。”
 陸軍当局は早速航空本部技術部と化学研究所の責任者を呼び出して事情を聞きますが、煙幕剤は民間業者が納入したもので、今後の調査を待つことになったようです。当日の午後7時10分から特別ニュースの形で陳謝し、被害者は申し出るように放送しています。11時半陸軍省新聞班が新聞班長の名前で次のような声明書を発表しました。
“従来飛行機上から煙幕剤を放射する場合百五十メートル位の高度からであったが、今日は見物人も多く風もひどかったので特に二百五十メートルから放射した。しかも代々木上空でも四百メートル位飛んでから放射している。ところが空気の温度が冷たく、上空に雲がなかったために反し下方は風強く、そのため液体が気化し終わらずに噴霧状になって地上に落ち、被害者をだすに至ったもので誠に申し訳ない次第である。被害者に対しては慰問の方法をとるはずですでにラヂオニュースでもこの旨を放送したが、午後八時までに判明した被害者数は三四十名である。”
  記者は5人の子供と一緒に見物に出かけ、全員が負傷した富田安五郎さんを取材しています。富田さんは次のように語りました。“岡部ケ池の所で見ていたのですが、煙幕が開かれてみんな見事なものだと喜んで見ていると、煙幕をふき出した飛行機が煙幕を出すのを終わって富ヶ谷の上の辺りから引き返して自分たちの前方上空に来たと思う時でした。まるでみぞれでも降る様に二、三回ザットとんでもない熱いものが降って来たので出来るだけ子供をかばったが思いがけないことで、とうとう子供たちにもみんなかかりました。かかった所は着物はこの通りまるで焼け穴だらけ、顔や首に数知れずやられたが、かかった箇所は火の着いた線香でも絶えずつけている様な熱さで手でさすれば皮膚がむけるし、痛いし始末におへませんでした。何分黒山の様な人の上に来たのですからやられた人の数が知れまいと思います”。
 富田さんの体験からすると、被害者はとても30名~40名などではすまなそうです。杉山陸軍次官の談話は“思いがけぬ出来事で誠に気の毒な事をいたしました”とはするものの謝罪の言葉はなく“被害を受けた方でわかった人達にはそれぞれ軍隊が手当し見舞している”と何だか恩着せがましく言っています。戦前の社会は、公権力の行使により国民に被害がでても、国民は賠償を要求することはできませんでした(国家無答責の原則)。この陸軍飛行演習が公権力の行使に当たるかどうかは微妙ですが、申し出た人はどの位いたのでしょうか。

 北村兼子(炎のジャーナリスト)が立川の日本飛行学校で学ぶ
 「東京日日新聞」(1931.3.17)は“北村兼子さんが一人前の操縦士”という見出しで、次のように伝えています。“立川の日本飛行学校で操縦術を勉強中の北村兼子さんは十四日までに早くも十一時間十三分の飛行時間を算する様になり、単独飛行の資格を得たのでいよいよ今月末の単独の試験を受けて一人前の操縦士として巣立つ。当初余り問題に115-2.jpgされていなかった同女史の飛行家志願も熱心な努力で晴れの外国訪問飛行計画期も近づいて来たので一層丹精をこめている。”
  北村兼子さんのことは、当時の人はみんなが知っているような書きぶりですね。どんな人かと「日本女性人名辞典」(日本図書センター1998年刊)でチェックしてみると“大正昭和期の随筆家…大阪外語学校英語科から関西大学ドイツ法律科に学び、二〇歳で「法律を学ぶ私」の一文を大阪朝日新聞社発行の「婦人」に投稿して認められ、在学のまま朝日新聞記者となる。昭和二(一九二七)年七月退社、翌年三年一月「婦人記者廃業論」を出版した。ついでホノルルで開かれた汎太平洋婦人会議に政治部委員として出席。四年ベルリンの万国婦人参政権大会に出席。五年立川の日本飛行学校に入学”とあります。なかなかの人物のようでもう少し知りたくなりました。彼女が書いた随筆「ひげ」(改善社1926年刊)に載っている右の写真を見ればますます興味を惹かれますよね。
 「北村兼子炎のジャーナリスト」(大谷渡著・1999年東方出版刊)によると、彼女は20歳の時に「高等試験・司法科」(現在の司法試験)に出願して、女性であるために受験が認められず、行政職(現在の国家公務員キャリア組)の受験も拒否されます。翌年の全国女子学生連盟演説会で男女機会均等を訴えました。恥ずかし話ですが、女性には高等文官試験の受験資格が無かったことを初めて知りました。因みに、日本初の女性弁護士が誕生したのは1933年のことです。
 こうした彼女が女性の参政権を主張するのは当然の流れですよね。彼女は1925年には初めて飛行機に乗って、第11回全国中等学校野球大会決勝戦に甲子園上空から声援を送り、飛行機に興味を持ちました。
随筆家の兼子さんは、飛行機について次のように書いています。 
 “飛行機
 足をもがれた蜈蜙(むかで)!東海道に臥ている記者が僭称して燕といふ、私の名の冒涜だわよと鳥の燕がいふ。
 燕氏の言ひ条は道理である。空中から鳥瞰していると汽車は芋虫のやうに寝そべって、ただ煙を浪費しているやうだ。航空時代は歩行時代に比べると風景もちがふ、西行法師が三保の松原から見た富士と私たちが飛行機からみおろした富士とは一つではないから不二ではない。摺り鉢を伏せて眺むれや三国一のとうふ古い流行り歌もあるが、それは古人の想像であって本当に伏せたすり鉢の底の裏から眺めることは昭和時代人のみが知ることで地貌も今では一変した。鳥貌も人貌も立体的になって観点が動いてきた。…
 水を自由に泳いでみたい、思う存分魚を獲ってみたいと希求する子供の心理が結成して「河童」という想像の形態を描いた。歩くのはおっくうだ、雲にでも乗って自由に飛んでみたい、その上に長生きがしてみたいと欲望した老人の夢の塊が仙人である。汽車より汽船より自動車より早く確実に動いてみたいという科学者の研究が飛行機に到達した。飛行機は文明の社会に吹き貫いた暴風であって他の微風突風は航空機から巻き起こされた風紋に過ぎない。戦争でも二年三年と長続きすることはなくて飛行機の瞬間の一と勝負で決定される。しかと結わえた小包の紐を爪の先でほぐしていたほどまどろしい進歩が飛行機の鋏でもって一と切りに切ってしまった、文明は散乱する、科学も散らばる。…
 今では飛行機が空中を征服したというがこれは過言である。もっともっと科学が進歩したら風、雲、霧を征服し得られるかも知れないが、それは遠い未来であって現在は征服ではなく逃避である、風を避け雲を逃げて動いているに過ぎない。一団の雲影がどれだけ私たちを威嚇するか知れない。空中に飛んでいる時には大自然の威力を痛切に感ずる。人間より燕の方が墜ちないだけに役者が上である。大自然は猛虎で人類はまだ小猫である。”(「大空に飛ぶ」改善社1931年刊)
 夏目漱石の「吾輩は猫である」を読んでいるような気分になりましたが、彼女はお気に入りの飛行機も冷静な目で見つめている事が分かります。特に飛行機は“空中を征服しているのではなく逃避である”と書いていることが気になります。飛行機操縦を学ぶ彼女は何から逃避しようとしたのでしょうか。それは、地上で起こっている婦人公民権法案の運命と関係があるように思います。次回は、この法案の運命を扱いたいと思います。 

写真上  大惨事を生んだ凄い煙幕          「東京朝日新聞」1931.3.9
写真下  北村兼子さん         随筆「ひげ」(改善社1931年刊)


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0