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気ままにギャラリートーク~平櫛田中 №13 [文芸美術の森]

《南無誕生仏

                         小平市平櫛田中彫刻美術館 
                                     主査・学芸員 藤井 明

「南無誕生仏」.jpg
「南無端法仏」 
厨子に入った「南無誕生仏」.jpg

                      厨子にはいった「南無誕生仏」
 

童顔で華奢な体つきをした仏が、右手で天を指しています。誕生仏と呼ばれるもので、この姿は摩耶夫人の右腋(わき)から生まれた釈迦が、すぐに7歩歩いて右手で天を指し「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と唱えたという伝承に基づいて作られています。「我」というのは釈迦自身のことを指すのではなく、個人を意味し、人間の尊厳を述べた言葉とされています。
釈迦の誕生日である4月8日には、全国の寺院でそれを祝う灌仏会(かんぶつえ)が行われ、そこでは九頭の龍が幼い釈迦に水を注いだという伝えにならって参詣者たちが誕生仏の頭上に甘茶を注ぎます。そうした用途のため、通常誕生仏は木彫で作られることはなく、銅で制作されます。実際、田中が奈良・中宮寺から依頼を受けて納めた誕生仏も銅製でした。
 この木彫の誕生仏は、中宮寺の誕生仏と素材が違うだけで、形と寸法は全く同じです。中宮寺の誕生仏が出来てからほどなく、改めて木彫に作り直されたものと考えられます。
 本像は、左手の指先から両肩を通って右手の指先に至るラインが流れるようなS字形を作り、上昇感を生んでいます。その上昇感は木という素材のもつ軽やかさによって一層引き立てられています。おそらく田中もそうした効果を期待して、わざわざ木彫に作り直したのでしょう。腰の辺りでぎゅっと引き締まった体つきも、木彫であることによって一層清々しい印象を与えています。
この像には厨子が付いており、厨子とともに祀るようになっています。厨子はヒノキを使った素木造りのため清楚な趣がありますが、内部には金箔が押されています(ただし、現在金箔は褪色し、当時の輝きを失っています)。厨子の制作は、国立能楽堂や乃木会館の設計で知られる建築家の大江宏の手になるものです。これが縁となって、田中は自宅を作るとき大江に設計を依頼しました。それが現在の小平市平櫛田中彫刻美術館の記念館です。ですから、厨子の制作を依頼しなかったら、田中は大江宏と知り合うこともなく、現在公開している邸宅も、今と随分違ったものになっていたことでしょう。この《南無誕生仏》が、田中と小平との関係を結び付けたと言えるのです。

* * * * * * * * * * * *                                                                       平櫛田中について 

平櫛田中は、明治5年、現在の岡山県井原市に生まれ、青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となる。その後、美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
大正期には、モデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作《転生》《烏有先生》など。昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求め、昭和33年には国立劇場の《鏡獅子》を20年の歳月をかけて完成した。昭和37年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章する。
昭和45年、長年住み暮した東京都台東区から小平市に転居し、亡くなるまでの約10年間を過ごした。昭和54年、107歳で没。


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