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じゃがいもころんだ №71 [文芸美術の森]

ひとりの美容師

                                    エッセイスト  中村一枝

 最近、美容院に男の客の姿をよく見かける。私の知り合いにも、長い間通っていた床屋をやめて、美容院に転向したという男の人がいる。坂の途中にあるその美容院は、いつも男の人でにぎわっている。店主らしい女の人は三十前後、顔はあまりよくみたことがない。
 坂の下の方にある、一見高級そうな美容院でも、手持ちぶさたに女性誌をめくっているのはナウい男の子であった。
 私の行く美容院との付き合いも三十年近い。今でこそ大井町は若者に人気のある街らしいが、当時は東京の中でも場末の場所だった。その一画の、路地を入った小さな店で、それでも当時は男性と女性の従業員もいて、それなりに普通の美容院だった。
  今は店主のSさんがひとりで店を切り盛りしている。そのせいで、完全予約制、シャンプーも自動洗髪機を使っている。彼は一人で店の中をあっちへ行きこっちに行き、休みなく手を働かせて、シャンプーもカットもドライヤーも何もかも一人でやってのける。今では一人の方がずーっと気が楽だと笑う。年は六十過ぎ、背丈はあまり高くない。ひっつめにした髪の毛をうしろでしばっている。合気道歴三十五年、五段だそうである。美容師という雰囲気とはちょっと違う。
 かなりのおしゃべりである。多分お客へのサービスのつもりがいつのまにか地になったのかも知れない。でもここに通い続けている客たちには、彼の遠慮のないおしゃべりは、どこかほっとする空間である。人の相手をする分、ある程度情報はいつも蓄えている。更に、相手によって使い分けることも又、わざに違いない。
 いつだったか、予約がとれず別の美容院に行ったことがある。その時、はじめて気がついた。Sさんの仕事の速さである。この速さで髪をいじくってくれる美容院は少ないのではないかと思った。それも、たっぷり時間をとってバカ丁寧な扱いを期待する人には向かないだろう。「何て乱暴で、雑なんでしょう」といった批判もくるかも知れない。
 もともとSさんは若い頃から海外で働くのが夢で、それなりに英語もトレーニングしていた。大学を終えると、海外の有名な美容専門店で働く機会をつかんだ。気がつくと美容院の仕事に手を染めていたと言うことらしい。
 以前は海外雄飛の志を熱く語っていたSさんだったが、いつのまにか、成長した息子や娘が、父親の思いを肩代わりしていたと言う。
 息子も娘も、それぞれアメリカ、ロシア、と国籍の違う伴侶をみつけ幸せに暮らしている。
  自分の夢のためにはじめた英語だが、そのおかげで、今では子供たち家族(双方の両親も含めて)とのなめらかな国際交流を作り出している。
 Sさんが街の小さな美容院の主として精を出していた頃、彼の高校、大学の友人は、課長だ、部長だ、重役だと社会的地位の確保に躍起となっていた。今、定年という壁を前に立場は逆転している。昔、美容師、と言えば友人のサラリーマンたちから一段と低い目で見られた。今、ヘヤーアーチストという職業は社会的地位も上がっているし、なんといっても一国一城の主だ。
 長いSサンとの付き合いの中で、世の中の変貌や移りゆくけしきをみてきた。、いつも陽気なおしゃべりに終始しているSさんだが、誰にもまして彼は今、自由に生きている。


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