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溶ける街 透ける路 №27 [文芸美術の森]

 ボルドーⅡ  Bordeau

                                    作家・詩人  多和田葉子

 ボルドーでは何度か「水」との忘れがたい出会いがあった。まずガロンヌ川。旧市で白い石の建物に左右を守られ視線を遮られることに慣れてしまってから急に川に出ると、視界がひらけ過ぎて、つかまるものが欲しいような、不安な気持ちになる。川幅は長く、あちら側に何があるのか想像もつかない。
 大きな川の流れる町は、ハンブルグでもバーゼルでもそうだが、旧市街のある側に高級住宅が集まり、対岸は労働者移住区でどちらかというと貧しいというイメージをそのままひきずっていることが多い。そんな偏見をほどくために、ボルドー市は「向こう岸」に植物園を作ったり粋な住宅を建てて割安に提供したりして、イメージが明るくなるよう努力しているそうだ。
 水は土地を分断する。ユーラシア大陸とアメリカ大陸を分ける大きな水、大西洋もボルドーのすぐそばまで迫っている。
 海のあるところは光が違う。銀色の膜をかぶったまぶしい空には、人の心をそわそわさせるものがある。海の広さが共鳴空間を桁はずれに広げてしまうせいか、砂浜で遊ぶ人たちの声が昔見た夢のように遠い。

 牡蛎が有名なアカションには、昔ながらの養殖小屋が並んでいる。牡蠣は種類別に平たい箱に入れて並べてあった。個数を号とその場で売ってくれる。開けてほしいと言えば、専用のナイフで開けてくれる。
 高校生の頃、モーパッサンの小説を読んでいたら、海辺で生牡蠣を買ってナイフで開けてそのまま食べるシーンがあって、牡蝿はフライや天ぷらにしなくても食べられるのかと驚いたのを今でも覚えている。
 生牡婿を食べていると、海そのものを食べているような気がしてくる。肉にしみ込んだ海水のしょっぱさには、海を漂って生きた軟体動物たちの記憶が無数に溶け込んでいる。味が舌にしみた瞬間、脳裏に浮かぶあの色は、わたし自身が貝だった時代に見えていた色なのか。

 海の水とは全く違ったプールの水との出会いもあった。町に着いた日に、滞在する家の近くにプールがあると教えられ、早速でかけてみた。わたしは泳ぎは下手だが、花粉症と腰痛にこれほどよく効く薬はない。
 カード形式の入場券を四ユーロで買って中に入るが、更衣室の戸はみんなしまっている。プールへ行く時まで辞書を持って行くのはやりすぎかと家を出る時は迷ったが、持って行ってよかった。辞書を引きながら説明を読むと、まずカードを機械に差し入れ、四桁の暗証番号を考えて打ち込むようにと書いてある。すると、「何番キャビンに行ってください」と表示が出て、そのキャビンの戸だけが自動的に開く。着替えて戸を閉めると、自動的に鍵が閉まる。これまで見た他の国々のプールのように、手首に鍵を付けて泳ぐのではない。鍵など初めからないのだ。泳ぎ終わったら、キャビン番号と暗証番号を打ち込めば、自動的に自分のキャビンが開く。
 電子辞書などという高級なものを持っていかなかったことも幸いした。電子辞書をキャビンの中に置いて行ってもしキャビンが開かなくなったら、説明をもう一度読んだり、人に尋ねたりするのに辞書がいる。濡れた水着姿で分からない単語に囲まれるのも惨めではないか。プールサイドに置いて泳げば盗まれるかもしれないし、持って泳げば清れて壊れるだろう。
 わたしの持っているのは五百円くらいの紙製の中富なので、盗みたいなら盗んで、それを使って語学の勉強に励んでください、と開き直ってプールサイドに置きっぱなしにしたが、やはり盗む人はいなかった。
 このプールに通い慣れたある日、行ってみると室内プールだったはずが突然野外プールに変身していた。それまで気がつかなかったが、気温が高くなると、巨大なガラスの壁と屋根が開いて、半分が野外プールになるしくみになっていたのだ。プールの真ん中では太陽が泳いでいた。


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