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気ままにギャラリートーク~平櫛田中 №8 [文芸美術の森]

郭子儀(かくしぎ)郭子儀》

                         小平市平櫛田中彫刻美術館 
                                     主査・学芸員 藤井 明

郭子儀.jpg

 

 郭子儀(697〜781)は中国・唐の時代の名将で、玄宗など四代の皇帝に仕えました。安史の乱(唐の節度師であった安禄山とその部下である史思明らによる反乱)で功を立てたほか、しばしば異民族の侵入を防いだとされます。汾陽(ふんよう)汾陽という地を治めたことから、郭汾陽という別名もあります。
 彼は長命で、たくさんの子供と孫がいたため、長寿、または子宝に恵まれる存在として、日本でも江戸時代頃から知られるようになり、江戸時代の有名な絵師である円山応挙が彼を題材にした作品を描いています。
先にも述べたように郭子儀にはたくさんの子供と孫がいたため、全員の名前はとても覚えられず、そこで子供たちの名前を呼ぶ際は、彼らの名前が書かれた札を見ながら一人ひとりを確認したというエピソードがあります。
 作品は白く長い髭をたくわえた郭子儀が、両手に札を握りしめ、椅子に腰をおろしています。ここでは子供たちの姿は表現されていませんが、郭子儀の上目づかいの視線から、彼らがそばにいることを感じさせます。「はて、お前さんは誰だったかな?」という郭子儀のつぶやきが聞こえてきそうですね。
 作品は、人体の基本構造に留意しながら、刀の切断面を連ねるようにして彫られたことで形が単純化されており、その上に彩色が施されています。田中が敬愛した奈良一刀彫の名手・森川杜(と)杜園(えん)園(1820~1894)の影響によるものです。
作品の周囲に大きな広がりが感じられるのは、台座やジヤマ(彫刻の支持体)が用いられていないことと、郭子儀のポーズにおそらく関係しているのですが、彩色が用いられたことで、外へと拡張していく雰囲気が強められたのと同時に、視線の行方が明示された点も大きいようです。また、明るい色調の彩色が施されていると、華やかで縁起の良い雰囲気にもなります。
田中は60歳をすぎた頃から、作品に彩色を施すようになるのですが、その効果は《郭子儀》のような作品において、十全に発揮されていると言えるのではないでしょうか。

* * * * * * * * * * * *                                                                       平櫛田中について 

平櫛田中は、明治5年、現在の岡山県井原市に生まれ、青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となる。その後、美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
大正期には、モデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作《転生》《烏有先生》など。昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求め、昭和33年には国立劇場の《鏡獅子》を20年の歳月をかけて完成した。昭和37年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章する。
昭和45年、長年住み暮した東京都台東区から小平市に転居し、亡くなるまでの約10年間を過ごした。昭和54年、107歳で没。


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