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台湾・高雄の緑陰で №40 [雑木林の四季]

纏足した私のお祖母さん4                                                               

                                        在台湾  何 瑞美

娘たちを日本へ留学

 私の母は十四才の時に小学校を卒業しました。他人に優る思想の持ち主であった祖父は、母をイギリス人が日本の大阪で創立したキリスト教の「プール女学校(注)」へ留学させました。それは日本統治時代の一九一七年のことでした。長女である母は台南ら日本へ留学した女子留学生の第一波のメンバーでした。同行者の中には台南の名士謝少邦先生の娘さんの謝繡治さんがいました。謝女史は日本の醫科學校で学び、卒業後台南高等女幾枚で停年退職迄校醫を務めた方です。母の話では、祖母は祖父が決定したことに逆らったことはありませんが、若年十四才で遠い日本へ留学していた娘を心配する余り食事も喉を通らず、夜も眠れぬ日が績いたので祖父は心配して、親友の奥さんに家へ来てもらい、祖母の面倒を頼んだとのことです。私の3人の叔母も租父の希望どうり次々と母の後を追って大阪のプール女学校へ入学しました。
 私の母は女学校卒業後日本から帰って来ましたが、南京の金陵大學に人学したいと考えておりましたので,祖父は母の考えを受け入れ、中国で留学中の親友の息子さん(後で私の父になる方)と連絡をとり、上海迄母の船旅の伴を頼みました。祖父は進歩的な思想の持主でしたので、その息子さんを将来の婿にと決めていましたが、慣例に従い先ず婚約をさせねばならないとは考えていませんでした。祖母も封建的で口さがない周囲の女達の言葉に左右されることなく、娘の節操を固く信じて疑わず、祖父の全ての手配に信頼を寄せ、この真直自な青年は無事責任を果してくれると信じていました。母の話では、二人は上海に着くと直ぐ南京へ行く予定でしたが、丁度その頃南京一帯は中国の内乱で交通は中断しており、南京へ旅立てるような情況にはなかたとのことです。私の父は当時福州の協和大学の学生でしたので、早めに学校へ戻らねばならず、母を上海に住む親友の蔡愛仁さんと廖文毅さんのお兄さん夫婦に暫く面倒を見てくれるよう依頼しました。上海で母は南京で勉強する機會はもうないと考え、丁度台湾へ帰る目上の林先生について故郷の台南へ戻って参りました。
 私の母が廿四才の時、父は既に協和大学から卒業して上海で就職をしておりました。父は廿八才の時母に正式にプロポーズしました。当時、祖父の事業はピ一クに達していましたが、昔からの伝統である婚約や結婚の時に男性側から贈られる結納金と喜餅を一切断る一方、女性側からは嫁入り道具と持参金は-切ないと男性側に伝え同意されました。祖母はこのように大胆かつ画期的な改革を全面的に支持しました。婿殿は自分の貯金で結婚指輪と花嫁衣裳を買い求め、台南で結婚式をあげた複、新妻を連れて上湾の任地へ戻りました。
 母は初産前に上海から台南へ帰って私の兄を生み、赤子が三個月になると上海へ戻って行きました。祖母は母のために十三才の女の子を子守役として上海へ同行させました。母は廿八才の時に上海で私の妹を生みよしたので、祖母は恋しさに遠路と未知の土地や人たちを畏れず、目下の親戚に伴なわれで基隆港から船に乗り上海へ旅立ちました。五十歳を過ぎた祖母は小さな纏足で上海と台湾の間を汽船で往復したのです。そのように勇気のある祖母を周囲の人びとは褒め称えました。

注:プール女学校は1879年英国人オクスラド女史が設立したミッションスクール。1940年聖泉高等女学校に改名、現在は学校法人プール学院の名称で大学、短大、高校、中学を運営。

(原作は漢文、何聡明編訳)

          

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