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気ままにギャラリートーク №4 [文芸美術の森]

《気楽坊》 

                 小平市平櫛田中彫刻美術館 主査・学芸員  藤井 明

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 江戸時代の後水尾天皇は、二代将軍徳川秀忠の娘と政略結婚させられたことが不満で、「世の中は気楽に暮らせなにごとも 思えば思う 思わねばこそ」という歌を詠み、気楽坊と名付けた指人形を作らせて心をなぐさめたといいます。本作は、京都の近衛家に伝わり、現在は陽明文庫が所蔵するその指人形をヒントにして作られました。
 もとの指人形によく似せて作られていますが、部分的にアレンジが加えられていて、頭部はみなさんもよく知っている有名人が参考にされています。戦後日本の総理大臣を長くつとめた吉田茂です。意外に思われるかもしれませんが、もちろんそれには訳があります。
 連合国軍最高司令官として戦後の日本を統治したマッカーサーが帰国する際、吉田は彼に日本の土産を持たせようと考えました。その時吉田の頭に浮かんだのが、第1話で紹介した《鏡獅子》だったのです。《鏡獅子》は日本の伝統芸能の一つである歌舞伎をテーマにしていますし、木彫に彩色という伝統技術を用いて作られているので、日本の土産にふさわしいと考えたのでしょう。作品は結局その時に間に合わず、その後国務長官を務めたダレスに贈られましたが、田中は吉田と何度か対面しており、その時印象に残ったのが、吉田のにっこり笑った顔だったのでした。
 《気楽坊》には、両手を水平に広げたポーズ、左手を上に右手を下にするポーズ、両手をだらりと下げたポーズの三つのタイプがあります。作品が登場したのもその順序。もとの指人形の形から、徐々にポーズがお気楽な姿になっていくように感じられませんか。彩色も様々あって、展覧会に出品されるような、芸術然とした作品とは違って、田中が楽しみながら制作していた様子が伝わってきます。
 ただ、こうした作品を見ると、田中がいかにも世間のしがらみから離れ、結構な暮らしをしていたように思われるかもしれませんが、決してそのようなことはありません。若くして二人の子供に先立たれ、生き延びた一人の娘もリウマチで寝たきりになるという不幸も味わっています。こうした事実を知ると、この作品の受け止め方もまた違ってくるのではないでしょうか。

* * * * * * * * * * * *                                                                       平櫛田中について 

平櫛田中は、明治5年、現在の岡山県井原市に生まれ、青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となる。その後、美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
大正期には、モデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作《転生》《烏有先生》など。昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求め、昭和33年には国立劇場の《鏡獅子》を20年の歳月をかけて完成した。昭和37年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章する。
昭和45年、長年住み暮した東京都台東区から小平市に転居し、亡くなるまでの約10年間を過ごした。昭和54年、107歳で没。


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