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平家物語における「生」 №40 [文芸美術の森]

物一詞いはん 巻十一 「能登殿最期」

                                元武蔵野大学教授  深澤邦弘

       四(3)

 次に「六ケ度軍」と史実とのかゝわりを考えてみたい。
 「六ケ度軍」は一体いつのことであったのか。『覚一本』では六度にわたる合戦の月・日・時の記述は皆無である。
「巻九」の目次では「樋口被討罰」「六ケ度軍」「三草勢揃」「三草合戦」とつゞく。降人となった兼光が処刑されたのは寿永三(一一八四)年一月廿五日、三草山への夜襲は二月四日であった。従って「六ケ度軍」はこの間の約十日ほどの期間の合戦と想定する事はできよう。しかし、この期間では二日に一度、日に日をつぐ福原からの遠征となり教経の超人的な活躍ぶりが一層際だつ。
 一の谷合戦より半年後の八月『玉葉』(巻四十一)に次の記事が見える。
 「一日、丁巳…略……或人云、鎮西多輿平氏了、於安藝國輿早川云々、六ケ度合戦、毎度平氏得理云々、」
 六度にわたる合戦、その都度「平氏理むるをえたり。」という。この時、なお西海・山陽地域には反源氏の平家勢力が存在し源氏に抵抗をしつづけていたのである。
 思うに「六ケ度軍」は『玉葉』にもみえるこの安芸の国における早川太郎遠平との合戦に平家勢力が連勝した事実を素材として虚構化された物語であろう。時期的にも平家の次代を背負うべき多くの公達が討死した一の谷合戦の前に潮らせて、教経個人の連勝の物語として描き、後方の統治の不安を除き一の谷合戦に臨む一門の威と士気を鼓舞強調する構成となっているのである。
 「早川」についてふれる。「早川」は「山陽道に派遣された早川太郎遠平(土肥実平男)である。(注7)」
 遠平は父実平と共に一の谷梯手の侍大将として加わり、さらに同年九月に西下する範頼麾下にも名を連ねている。父実平の武者ぶりは一の谷・藤戸合戦等でしのばれるものの、子遠平の戦場での活躍を『平家物語』(『覚一本』)は伝えていない。梶原景時・景季、熊谷直実・直家、瀬尾兼康・宗康等の戦場での父子の情愛と絆の深さをこまやかに描写している作者も実平・遠平父子への関心は淡かったようである。
 『吾妻鏡』をみる。
 治承四(一一八〇)年八月廿日、頼朝は伊豆・相模の御家人四十六名を率いて土肥の郷に向った。その中に実平・遠平父子もいた。以来、遠平は頼朝に近く仕え、文治五(一一八九)年七月の奥州討伐にも父子とともに出陣している。建仁二(一二〇二)年五月には「早河庄をもって申分せし」め「田百四十丁六段、預所土肥弥太郎遠平を停止し、笛根山に付けらると云々」の記録もみえる。『吾妻鏡』の元暦元(二八四)年八月には『玉葉』の記事に照応する記録はみられなかった。
 早河の庄名は芦の湖から流出する急流早川に由来する(注8)。
・巻九「老馬・一二之懸・坂落・小事相身投」
 三草山敗戦の直後、宗盛は「山の手は大事に候。」と説くも君達は皆向おうとしない。しかし教経は「……幾たびでも候へ。こはからう方へは教経承ッてむかひ候はん。・・・」と一万余騎を率い、鶴越の麓へ盛俊、見通盛と共に向う。仮屋に北の方を迎えた通盛を「…只今も上の山より源氏ざッとおとし候ひなば、とる物もとりあへ候はじ。」「ましてさ様にうちとけさせ給ひては、なんの用にかたたせ給ふべき」と教経は諌める。六日、夜半、拗手。先陣を名乗る熊谷直実は大音声でいった。「……室山、水島二ケ度の合戦に高名したりとなのる越中次郎兵衛はないか、上総五郎兵衛、悪七兵衛はないか、能登殿はましまさぬか。…」と。すでに教経は敵源氏からも高名の武者の一人に数えられていた。七日のあけぼの、教経が予測した如く、義経勢は急坂な「鶴越をおとし」て急襲。
 火を放たれた屋形は激しい風にあおられて黒煙につゝまれた。一万の山の手の陣の武者達は「取物もとりあへ」ず、「あわてさわいで、若しやたすかると前の海」へ殺到した。この戦場から、教経は「度々のいくさに一度も不覚せぬ人の、今度はいかが思はれけん、うす黒といふ馬に乗り、西をさいて」落ち「播磨国明石浦より舟に乗ッて、讃岐の八島へ」渡っていく。『延慶本』は「所々ニテ高名セラレタリシ能登守、イカヾ思ワレケム、平三武者ガ薄雲ト云馬二乗テ陣磨ノ関へ落給テ、ソレヨリ船ニテ淡路ノ岩屋へ」渡ったとする。
 侍大将越中前司盛俊は猪俣の小平六則綱に討たれ、内甲を射させた越前三位通盛は「内甲を射させて、敵におしへだてられ、おとと能登殿にははなれ」「かたき七騎がなかに取りこめられて」落命した。
・巻十一「嗣信最期」
 屋島の陣を急襲された平家の人々は海上にのがれた。宗盛の「…能登殿はおはせぬか。陸へあがッて「いくさし給へ」の声に教経は越中次郎兵衛盛嗣を具し「少舟共に取乗ッて、」惣門の汀に陣をとって義経勢と対時する。「王城一の強弓、精兵」、教経は判官を「射おとさむとねら」い、一人当千の源氏の兵者達は「われもわれもと馬の頭をたてならべて、大将軍の矢面に」立つ。「まッさきにすすんだ」嗣信は教経に射ぬかれて落馬、その頸をとろうと走りかゝつた教経の童菊王丸は忠信に射られて倒れる。教経は菊王丸をひツさげて戻った。

『平家物語における「生」』新典社研究叢書


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