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浜田山通信 №108 [雑木林の四季]

103歳井上アイさんの『雪椿』がすごい

                                   ジャーナリスト  野村勝美

 私は毎日やることがないので図書館へ行って新聞、雑誌を見る他は、本を読んでいる。テレビもあまりにくだらぬし、とくにニュースがひどいため、しまい込んで全く見ない。おかげで本を見るスピードは、昔より速い。が、読んだ片端から忘れる。が、良い本を読んだ感動と満足感だけは残る。
 最近ではなんといっても井上アイさんの『雪椿』だ。井上さんは明治43年8月生まれの103歳。私の母はもういないが、同い年で9月生まれ。結婚は昭和3年。同4年に井上さんは長女を、母は私を産んだ。子供は4人と5人。夫を兵隊にとられ、あの戦争中乳飲み子を抱えどんなに苦労したか、
 井上さんの生まれは、新潟県の長岡。親の家は町周辺北組五カ村の割元庄屋の第一分家で、屋敷は掘割に囲まれていた。(のちに本家も分家も倒産)私の母方は1町歩ちょっとの自作農だから家柄は月とスッポンだが、女学校は出ていた。越後も越前も雪国だし、作品の前半の長岡時代がよく描かれていて興味深く、かつおもしろかった。
 戦争になってからがすごい。井上さんのご主人は医師で、敗色濃厚になってから召集され、玉砕覚悟のフィリピンに送られる。9隻の船団のうちマニラについたのは2隻で、残りは海の藻くずと消えた。戦闘は圧倒的な米軍の前にただ逃げまどうのみ。それでも遅くなったが敗戦のおかげで生還する。私の父はもう外地に行く船もなかったため、再召集されたが、愛知県の海岸で米軍上陸迎撃用の塹壕掘りをやっていて、毛布やら何やら背負って帰ってきた。
 夫を戦争にとられた主婦の苦労は半端じゃない。とにかく収入がないから食料を手に入れるのが大変だ。主食の配給はどんどん減り、ヤミや衣類などとの物々交換にも限度がある。井上さんたちは東京目黒の柿の木坂にいたのだが、(2軒おいて隣りに戦中戦後を通しての右翼の政商児玉誉士夫がいて病気の婦人を治したお礼にと当時の金で5千円を持ってきたが、その金で崖に2層の防空壕を造るなどおもしろいエピソードが出てくる。定価千円、ぜひ読んでください。(発行所 〒105-0011 港区芝公園2-6-11 オフィスWOL) 空襲が激しくなり山梨県勝沼へ疎開.。ここでも食糧難で薬もなく、一歳の末っ子をなくしてしまう。
 せっかく帰国できた夫は、赤坂の保健所長を勤めながら、マラリアがもとで昭和23年6月大出血をしてなくなる。戦死したのと同じだが、敗戦後は遺族手当も何もない。おまけに自宅は夫が知人の借金の保証人になり抵当に入っていた。
 スフ織物の行商、洋裁店、桜町病院の売店、食堂を経営した。ようやく柿の木坂の自宅を売ることができ、富士見丘で学生下宿を始めた。ところがここで大問題が持ち上がり、井上さんは反対運動の先頭に立つ。(この項続く)


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