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じゃがいもころんだ №61 [文芸美術の森]

秋の暮

                                     エッセイスト  中村一枝

 池上本門寺のお会式は昔からある有名なお祭だが、四十年くらい前までは、何枚も重ね着したり、厚いコートを着込んだりするほど寒かった。お会式がすんだら、そろそろ冬支度を始めなきゃ、誰しもそう思ったものだ。それがここ何年かお会式がちっとも寒くない。まるで夏祭だったよ、とお会式に、偶然、出逢った弟が笑っていた。
 「今年の秋はいつになったらくるのか」とむくれていたが、今朝、犬の散歩に出ると、さーっと一陣の風が首筋をなでて通った。さわやかで少しひやっとする秋の風だった。
 このところわが家のまわりでも犬を飼う人が増えた。散歩の時間、道に出ると、ここかしこに犬の輪ができている。全く見知らぬ人でも犬同士が挨拶すると、自然に顔がほころんでくる。
 一年近く前に開店したカレー屋さんで昼食を食べていると男の人が「テイクアウトで頼むよ」と言って入ってきた。黒っぽいラフなシャツ姿に近所の人だなと思った。相手もちら、ちらとこっちを見ているが、思い出せない。持ち帰りができあがって戸口のところでその人はちゅうちょしながら思い切ったように言った。
 「いつも犬を連れて歩いていらっしゃる方ですね」
 同時に私も「ああ」と叫んで、腰を半分浮かせた。思い出したのである。10年くらい前にも私は今の犬と同じビーグルの雌を飼っていた。今の犬よりも体が一廻り大きいが穏和で賢い犬だった。名前はアニ。その頃から毎朝逢う男の人、彼が連れているのは柴犬のような顔つきの白と黒の二匹の犬である。アニとその犬たちは逢うとお互いに歯をむき出していがみ合った。いつか、その人は広い道の反対側の端を二匹の犬を叱りながら身をこごめて通るようになった。五年前、アニが死んだ。その犬たちが元気であるいているのを羨ましく見ていたのだ。今のビーグル、モモは根っからの臆病で、遠くの方から二匹をみただけで電柱の後ろに隠れてしまう。相手の人は未だに行き逢うと二色の紐をたぐり寄せ道の端を恐縮して通りすぎる、道で出逢うだけだから互いの素性も殆ど知らない。一種の勘と親近感で結ばれているのだ。
 Tさんとも知り合って十年以上たつかも知れない。Tさんは真っ白の毛につぶらな瞳のスピッツの飼い主である。色が白く、きゃしゃな面差しの、それでいてどこか、知的でモダンな雰囲気の漂う人だった。多くは語らないが、娘と孫と一緒にくらしている。犬の名前はこだまちゃん。Tさんとはお互い本好きとわかった。特に辻邦生のものは共鳴して私も好きな本を貸すようになった。そのTさんが去年の秋から、ばったり姿を見せなくなった。人伝に聞いてみると、かなり重い病気(多分ガンでは)と言う話が伝わってきた。こだまちゃんはたまにお孫さんらしい少年が連れて歩いているが心なしか毛もぱさついて昔の豊かでふさふさした面影がない。十ヶ月以上たったあるとき、こだまちゃんをつれたTさんにばったり逢った。私は思わずかけ寄った。もともとの白い肌が透き通るようで支えてあげたい位頼りなげだったがTさんだった。
 「わたしね癌の手術をしたの。それもいろいろでむずかしかったの。よく帰れたと思うわ」
 悲壮でもなく淡々とTさんは自分の病状を話してくれた。それだけに切実さが胸にこたえた、傍らでこだまちゃんが黒いつぶらな瞳で主人をじっとみあげていた。


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