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浜田山通信 №95 [雑木林の四季]

千葉の仲間たち

                                         ジャーナリスト  野村勝美

 4月10日毎日新聞のある竹橋のパレスサイドビル地下1階赤坂飯店で千葉支局同人会があった。昭和38年前後3~4年在籍した仲間でもう50年も昔になる。 昨年暮私と同年で一番の年長者、兄貴分だった坂本充郎さんがなくなり、偲ぶ会を兼ねた。集まったのは愛波健(社会部長、監査役)、今吉賢一郎(サンデー毎日編集長)、神田順二(現在も新潟県南魚沼通信部)、小林弘忠(作家・エッセイストクラブ賞受賞)、佐藤幸己(千葉折込広告社長)、沢畠教(出版局次長)、中安冗規(編集委員、ジャーナリスト)と私の8人。もう1人竹内光(航空部長)が所用で欠席した。
 皆すでに70歳を過ぎて孫もいる。病気もかかえている。いちばん若い神田さんの如きは、喉頭ガンで声帯を失いながら雪深い六日町や十日町をかけずり回り、記事を書いている。シャント発声法という治療でふつうに会話もやり、同病者を激励する側でも活躍中だ。
 中安さんはかって盛岡支局にいて、101歳の義母が同地にいることもあって、東北大震災のあと田老、宮古、気仙沼、石巻、女川などをかけ回った。貞観地震、三陸津波、昭和震災の研究もし、ルポも書いた。
 なにしろ50年半世紀、3時間や4時間あっという間に過ぎた。何日も合宿しない限り同時代史は語れないだろう。私は2・26事件関係で何冊か目を通したこともあり、新聞記者時代も含め、日本の近現代史についていかに無知モウマイだったかこの年になって痛感していると少しだけ口にした。
 実は4月の始め実家の株式会社野村塗装店が創業100周年記念式典をやるというので福井へ行った。私の祖父恒吉は明治6年生まれで若い頃、台湾、朝鮮、満州へ出稼ぎにでている。それで明治維新以後の百姓や貧乏人がどんな暮しや“海外雄飛”をしたのか。そして明治の末どのようにして新しいペンキ屋という稼業を始めたのか、具体的なことがさっぱり判らない、ということもあった。
 近現代史の本は無数にある。改めて目を通してみると実におもしろい。いろんな見方がある。知らなかったこともいっぱいある。何も一つの見方に統一することはない。グローバル化の時代とはそういう時代だろう。 
 3月末で西友裏の泉豆庵という豆腐店が閉店した。無添加、手作りを謳い、2階では豆腐料理、菓子のレストランまで開いた。浜田山は金持ちの多い町だというが、飲食店や食料品を売る店も高額ではなかなか難しい。店の改装費や家賃など営業5年8カ月では元もとれなかっただろう。同日一番街の居酒屋どんぶり鉢も閉店。こちらは長く30年になる。5月から新しい経営になり赤提灯は引っ込めて、パブのような店に変わるらしい。街はどんどん変化する。古い木造家屋が解体され、更地になった所も多い。消費税や相続税の値上げ、アベノミックスの影響である。
 


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