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浜田山通信 №94 [雑木林の四季]

渡瀬亮輔さんと二・二六事件③

                                  ジャーナリスト  野村勝美

 私の社会部記者時代の大先輩に牧内節夫さんがいる。造船疑獄事件では私は地検の車の追っかけ要員、牧内さんは弁護士や会社関係の取材を担当する遊軍記者だった。のちにロッキード事件を社会部長時代に手がけ、“ロッキードの毎日”と謳われ、その後編集局長になった。スポーツニッポン社長もやった。もう残っている唯一の先輩なので渡瀬亮輔さんのこともきいた。すると牧内さんは2月5日自宅(府中市)から30分ほどの多磨墓地にある渡瀬さんの墓所を訪ねたらしく、早速一文をものされた。
 「墓は小金井口の近くにあった(23区2種7列)。真正面の墓が父渡瀬常吉さん。昭和19年10月14日京城にて没。昭和25年10月亮輔建立とある。父親はキリスト教の伝道師であった。墓表には『埋骨の南山われに紅舞して』の句があった。その右側に渡瀬亮輔さんの墓。昭和53年1月14日死去。享年77歳。しばし手を合わせてご冥福をお祈りする。」
 牧内さんはこのあと渡瀬さんの足跡を調べる。昭和13年6月、武漢三鎮攻略作戦が始まると毎日新聞は多くの記者を送り、南京に取材本部を置いて渡瀬さんは総指揮者となった。さらにこのあと南方課長になる。当時広東には、私が社会部にいた昭和33年頃社会部長の三原信一さんがいて、中国から南方地域さらに世界各地の戦況、情勢を打電し、『三原の広東特電』と有名だった。
 「それでも渡瀬さんは『広東は何も書かない』というのが口癖だった。新聞報道には報道、解説、評論の三つがある。日常のニュースに追われるのではなく、ニュースを分析してそこから時代に与える教訓、将来への願望などを書けということだろう。37、8歳のころこのような考えをしているのに敬服する。私はその年齢のころデスクとして日々のニュースを処理するのに精いっぱいであった。
 牧内さんはネットで渡瀬常吉さんのことも調べてくれた。「熊本県八代の出身。武士の子として生まれ徳富蘇峰の大江義塾に学び、18歳の時に八代協会でキリスト教に入信。明治40年神戸教会第6代牧師に就任。朝鮮総督府より組合教会の海老名弾正に朝鮮での布教活動の依頼があり、海老名の直弟子だった渡瀬が選出された。明治43年の日韓併合により総督府から援助を受けた日本組合基督教会から朝鮮伝道の主任牧師として派遣された。一時は200の教会と信徒2万人を数えたが、独立運動の高まりとともに朝鮮布教は衰退し、朝鮮伝道部は廃止された。大正10年帰国。この朝鮮伝道は総督府の機密費を受けたため柏木義円らが反対し、教会と国家の関係の在り方に深刻な教訓を与えた。京城で没す。」
 因みに渡瀬亮輔は一高・東大卒。学識、経歴ともに社長になる人物だったが、同じ頃、大阪毎日新聞三代社長原敬(19代首相)を大叔父にもつ上田常隆九代社長がいた。
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 メーンロード商店会の矢崎時計宝飾店の矢崎喜美子さんが3月10日亡くなった。86歳。上落合で戦前から有名だった文学堂という古書店のお嬢さん。あまり商店会や老人会でのつきあいはなかったが、家の横の路地でせっせと草花の手入れをした。それがどんなに商店街を訪れる人たちを楽しませてくれたことか。 私も時折、植物のことや古本のことなどをきいた。いかにも東京生まれらしい明るいおばあちゃんだった。
 浜田山には昭和24年頃からで、古くからの商店主らが12日の通夜に滲加した。吉田文具店、カテリーナ洋菓子店、クリケット洋品店、荒川水道店、伊藤薬局、サカエ薬局、竹井米店、坂田カメラが現役、もう引退しているやまきや果物屋、宮坂金物店、大鮨夫妻と安藤地主。
 ことしはサクラが早かった。病身ではあったが、しっかりしていたのでもうひと月ほど生きのばせてあげたかった。


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