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浜田山通信 №93 [雑木林の四季]

渡瀬亮輔さんと二・二六事件②

                                       ジャーナリスト  野村勝美

 私が毎日新聞に入社した頃、浜田山に住んでおられた編集主幹渡瀬亮輔さんのことを書いている。昭和25年取締役、同31年常務、33年相談役、36年退社後は西部毎日テレビ社長、毎日放送副社長だった。いくら社内は民主的だったとはいえ、新米記者が直接話しかけられるわけではなく、私は渡瀬さんについて何一つ、思い出、記憶がない。書棚をのぞくとのちの編集室長住本利男編『毎日新聞の24時間』があった。工藤信一郎、新井達夫、高田市太郎、中山善三郎、古屋綱正、高原四郎、戸川幸夫、三宅周太郎、永戸俊雄など、発行昭和30年当時の看板記者、局部長が執筆、装画が安井曾太郎、装丁横山隆一、カット那須良輔。もはや現役世代の記者は名前も知らないだろうが、当時は一般読者にも知られたビッグネームである。私にはいま読み返してもおもしろく、当時の新聞事情がわかって勉強になる。
 この中に渡瀬亮輔さんが「『中道新聞』の弁」なる一文を書いている。世間は毎日新聞のことを性格がぼやけている中道新聞と批判する人がいるが、「戦後の民主主義新聞の在り方は、十分に客観性を具備した、能う限り在りのままなるニュースを読者に提供、読者は各自自由に判断を下す。つとめて主観を抽象し事実を描出するのが記者、編集者の仕事である。これが中道をゆく新聞になる。人はこの新聞を読むことによってどこにも偏しない事件や事態の真実の姿を見極めるのである。」
 続いて自分の体験談に入る。
 「私が第一線の取材記者時代は、いわゆる雑報に主観を挿入することをもって、むしろ当然とした。私は一時陸軍を担当したことがあるが、陸軍の代弁をするぐらいならまだしも陸軍そのものになって大見得をきっている。記事を書けばしばしば『軍の総意』という言葉を使った。それは一部の急進論者の意見であったことは申すまでもない。世は満州事変を経て、軍が政治のヘゲモニーを奪取せんとする気配であり、一にも二にも国防強化を唱え、その間に二・二六事件への道が準備されやがて来るべき大破局へ猛進しつつあった。」
 「その後の話で私にちょっとした思い出がある。二・二六事件は鎮圧されたが、軍は事件に乗じて確実に政治の指導権を掌握した。その打った手の一つに陸海軍大臣の現役制というのがあった。それまでは予備軍の大中将なら陸海軍大臣になれたのである。この制度が一挙に葬り去られて、現役の大中将以外は何人も陸海軍大臣になれなくなった。つまり両大臣を出そうと出すまいと軍首脳部の意のままになった。宇垣内閣の流産はまさにこの結果であった。この重大な政治的意味を当初私は気付かなかった。私ばかりではなかったように思う。
 私はこの官制改変の記事を書き終わって帰宅したが、フト待てよ、と思った。そうすると陸軍の場合、陸軍大臣、参謀総長および教育総監の三人が腹を合わせて、内閣に新しい陸軍大臣を推薦しなかったとすればどうなるか。内閣をつぶそうと思えば、この手をつかって軍はいつでもつぶすことができるのではないか。さては、このような意図が隠されていたのか。この重大な影響を誰ひとり考えてなかったのか。私は全く蒼白になって深夜社にとって返し、あわててこの政治的大影響を書き上げて翌朝の新聞に間に合わせた。」
 「戦争の狂瀾怒涛を経、敗戦の苦痛を味わい民主主義のルールがしかれはしたが、なおこの先何が待つやも知れぬ世界の情勢を前にして、私は、毎日新聞が恒に真実を追い求める良心の新聞であることを念願してやまぬ。」
 この本が出版された1955年、朝鮮戦争は53年に休戦したが、東西冷戦は続く。国内の55年体制はまだできていない。敗戦の爪痕は残り、世の中は危うさに満ちていた。新聞発行の責任者としての苦悩はいかばかりだったかといま思う。


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