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浜田山通信 №87 [雑木林の四季]

「死ぬ時節には・・・」

                                 ジャーナリスト  野村勝美

 師走選挙といっても引きこもり老人には何も聞こえてこない。TVはとっくに見るのをやめたし、新聞も世論調査だけがデカデカと紙面を占領する。石原も橋下も嘉田も小澤もどこかに消え、安倍の泣き顔と野田のふくれっ面が大きく出て、とても新聞を読む気になれない。代わって北朝鮮の“事実上のミサイルや”尼ケ崎の気味悪い女の自殺事件などが紙面に踊る。そんな新聞に白木東洋さんの死亡記事をみつける。12月4日、肝不全、80歳。白木さんの家は、三井グランドの北側、井の頭線に沿ってある。2カ月ほど前から後ろの古い木造2階建てアパートを取り壊し、同じような規模の計20戸ばかりのアパートを建築中だった。夏以来、散歩の途中でも、犬を連れた彼に会うことがなかったので、もしやとは思っていたのだが、葬儀は例によって近親だけでとあったので和子夫人を弔問することもしなかった。
 白木さんは私より2年後の毎日新聞入社で社会部でいっしょになった。浜田山でのつき合いは、私が昭和24年に越してきてからだから53年になる。彼は警視庁で公安担当の敏腕記者、当方は都庁、労働、文化省担当のボンクラ記者だからそんなに話が合うわけではない。60年安保の時は、彼は三派全学連の指導者だった現政治評論家の森田実氏らともつきあい適格な情報をとっていた。
 ロッキード事件では、社会部の担当デスクで取材全般を指揮し、“ロッキードの毎日”の名をあげた。白木さんの父君は戦前の毎日新聞記者。2.26事件の時は、陸軍担当で、決起前日の青年将校たちの動静をつかんでいた。親子2代にわたって昭和史の大事件をスクープしてきたわけだ。夫君の名は石橋恒喜。白木さんは母方の姓を継ぎ、石橋家は妹さんが継いだ。
 学生新聞部長、学芸部長などをつとめ定年後は、日本記者クラブの専務理事を97年までつとめた。死なれるとなぜもっとくわしく昔の話をきいておかなかったかと口惜しく思う。
 毎日関係では早大、毎日で同期だった三宅久之が11月15日、1年先輩で編集局長だった細島泉さんが9月17日、社会部では運動部長、調査部長の末安輝男さんが10月6日、他に大沢栄作、森一美さんが逝き、麻雀、ゴルフ仲間だった米山貢司さんの偲ぶ会(11月1日)には、私も顔を出し、懐かしい面々と昔話に花が咲いた。
 浜田山関係では、駅東隣りの踏切の南側角で茶商を営む“茶金”の益田敬次さんが10月11日に死去。益田さんは浜松の人。水道橋近くの茶商で修業し、昭和30年代に店を持った。同じ静岡連がりでうなぎ屋もやっていた。平成4年浜田山商店連合会で会長を勤めた。浜田山もまだ商店街に活気があった。いまはもう街にジングルベルも鳴らないし、クリスマスツリーもあまりみかけない。でもこれでよいのだろう。神を信じない者が、何も浮かれ騒ぐことはないし、もうこの先景気が回復して、などと望むのがおかしい。
 もう一人私にとって忘れがたい人がいる。大東達夫。奥さんの大東アキ子さんから喪中はがきを頂いた。彼は昭和23年4月、早稲田第二高等学院SLクラスでいっしょになった。一学期だけいっしょにいたが、青共合唱団に入り、さっさと退学した。たしか海軍兵学校のつめ襟の制服をきていたが、夫君は終戦時、海軍の経理関係の総監で中将だった。家が今の柏宮公園の近くにあり、私が浜田山にくる頃までそこにいて、殖産住宅の組合や立川の診療所あたりに勤め、選挙のたびに共産党への投票を呼びかけてきた。いまになってもっと話をきいておくべきだったと悔やんでも仕方がない。良寛じゃないけれど、人間、私も友人も「死ぬ時節には死ぬがよく候」と思うより仕方がない。
 孫娘の香花のチームが12月9日、杉並区立中学校駅伝女子で3連覇をなしとげた。ぶっちぎり、すごい。来年こそ、よいお年を。


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