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バスク物語 №4 [雑木林の四季]

私の町ビルバオ ― 新旧の併存する鮭カ

                               文筆家・翻訳家  狩野美智子

 バスクで、私がいつも根拠地にしているのはビルバオです。
 「ビルバオは汚い町だ」と、ビルバオの人はよくいうのですが、「でも好きだ」と付け加えるのを忘れません。こういう人々と共に、私もいつのまにか、美しいサン・セバスティアンよりも、歴史の町バンプローナよりも、ビルバオが自分の町になってしまったことを感じます。
 十九世紀末から、ネルピョン川沿岸に、周辺の鉄鋼石を利用する精錬所、製鉄工業が集中し、ビルバオはその中心都市として大いに繁栄しました。スペイン中から、たくさんの人々が、ビルバオを中心とする工業地帯に流入してきました。そのためバスク色が薄れ、バスク語、バスク文化が脅かされるという危機感の中から、バスクのナショナリズムが生まれたといわれています。
 バスクナショナリズムの最大の指導者、サビノ・デ・アラナもビルバオの人です。彼の家があった所を通りかかった時、アスピアスさんは、そこが生家跡だと教えてくれ、「フランコが壊したんだ」と言っていました。
 オスタル・イバラには、アスピアスさんの紹介で、一九八三年に初めて泊りました。私を迎えて下さったイバラ家の人々は、客を泊めるオスタル(簡易ホテル)の経営者のようにではなく、どこか遠くから久しぶりに帰ってきた家族でも迎えるようだったのです。それ以来、ここは私のバスクの家になりました。
その当時、すでにドニャ・マリアは八十九歳でした。誰からも名前に敬称をつけて、ドニャ・マリアと呼ばれ、尊敬されている上品な老婦人です。
 二カ月滞在の残り少なくなった日、「あなたが日本に帰ってしまったら、どんなに淋しいだろう」といわれた時、「またきっと来ます」といい、そのことば通り、隔年にバスクを訪れる時は、必ずここを宿にしています。けれど、何しろご高齢なので、早く又行かなければと気が急ぐのです
 マイテは、ドニャ・マリアの亡くなった一人息子の奥さんです。音楽が好きで、ピアノをよく弾きます。元気な人で、オスタルを切り廻しています。バスクのことを何でもよく知っていて、彼女からいろいろなことを聞きました。一緒に散歩をしたり、サルスエラ(軽歌劇)を見にいったりバスク料理もいくつか習いました。彼女直伝の「いかの墨煮」は、私のバスク料理レパートリーのナンバーワンです。
 マイテの母方のおじいさんは、サビノ・デ・アラナの同志で、バスク国民党(PNV)の創始者の一人でした。叔父さんに当たる人も有名な闘士だったそうです。彼女の小さい時、スペイン内戦の前ですが、彼女の家はスペインの官憲からきびしくマークされていました。ある夕方、家宅捜索をうけた時、幼かった彼女がバスク語で何かいうと、警官から「犬のことばを使うな」と怒声をあびせかけられたそうです。それで学んだのだと、マイテは言いました。小さい愛国者が生まれたのです。こうして、バスクの人々は、バスクを意識してきたのでしょうか。
 ヨーロッパの古い町はどこでもそうですけれども、ビルバオも旧市街と新市街に、はっきり分れています。ネルピョン川左岸の旧市街は、「カスコ・ビエホ」と呼ばれ、いく筋もの道幅の狭いゴチャゴチャした賑やかな通りが、いかにも下町というおもむきです。
 そのほぼ中央にカテドラルがあります。「サンティアゴ教会」というのですが、その名の通り、この教会はフランスやドイツなどから中世の問、ガリシァのサンティアゴ・ヂ・コンポステーラに向って巡礼をした道筋の一つに当っていて、古くから尊敬をうけてきました。
 オスタル・イバラは「カスコ・ビエホ」のほぼ入り口にあります。この町を、私はどれほど歩いたでしょうか。今住んでいる杉並よりも、ずっとよく知っているような気がします。考えてみると随分おかしなことかもしれませんが。

『バスク物語』彩流社


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