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往復書簡・広島あれから67年 №16 [核無き世界をめざして]

広島あれから67年16

                       エッセイスト  関千枝子・作家  中山士朗 

  関千枝子から中山士朗さまへ

 お手紙ありがとうございました。「トマト」の話を読み、ぐっときました。私も、予定を変えて、トマトの話を書きます。
 原爆の後、私のいた宇品町の北部一帯は、爆心から三キロ、家は少々壊れましたが、火災(熱線)の被害はありませんでした。庭の植木等も無事だったのですが、不思議なことに、蓮とトマトが焼け焦げているのが記憶に残っています。
 あのころ、どこの家でも家庭菜園を作っていました。トマトは多くの家で植えていました。また、宇品北部一帯は蓮田がいっぱいあり、学校は蓮田に取り囲まれていました。宇品から仁保・大河に行く道は、ずっと蓮田が続いていました。毎日、蓮田を学校の行き帰りに見ながら、その頃、国語の授業で習った僧正遍昭の短歌「はちす葉のにごりにしまぬ心もて なにかは露を玉とあざむく」という短歌を口ずさんだりしていました。この歌は、遠い古典の世界ではなく、日常のことだったのです。
 原爆のあと、蓮の葉の焼けこげが記憶に残っています。大きな蓮の葉の、全部がやられているわけではなく、何本かが焼けている。焼けたところは真っ黒で火傷を連想しました。    
 トマトはもっと無残でした。 
 私の家でも裏庭に少しトマトを植えていました。ミニトマトでしたが、葉がすっかり焼け、ダメになっているのです。実は真っ赤に熟れており、しがみつくように残っていました。
 トマトはあまり酸っぱくなくて、原爆で口の仲間で火傷をした人でも食べやすかったのでしょう。けがをした人たちにとても喜ばれました。
 山縣幸子さんは学校に帰って来たクラスメートの中では火傷が比較的軽かったのです。「お母ちゃんが来るまで死ねん」とがんばっていました。
九日、私と同様、作業を休んで助かった山崎容子さんが学校に来ました。額にガラスの破片が刺さり、大きな包帯をした山崎さんが、山縣さんのそばで話しているのを私は、まぶしい思いで見ていました。私はその頃、広島弁をしゃべれない「転校生」で、山縣さんになにか慰めの言葉をかけようと思ってもできず、休んで助かった罪悪感ばかりで、山縣さんの周りでうろうろするばかりでした。
後で聞いたところによると、山縣さんは山崎さんに「トマトを食べたい」と言ったそうです。あのころ火傷の人に水を飲ますと死んでしまうからダメ、と言われ、水をあげられなかった。山縣さんは水をじゃぶじゃぶ飲みたいと言っていました。きっと、トマトなら食べられると思ったのにちがいありません。山崎さんは「トマトならうちの庭にまだたくさんなっている、持ってきてあげる」と約束したそうです。
 しかし、山崎さんは、学校から自宅に帰る途中で(彼女の家は牛田でした。直線距離でも4,5キロありそう〉気持ちが悪くなり何度か倒れ、家に帰るとそのまま寝つきました。トマトの約束は果たせなかった。それは彼女の生涯の心の痛みだったようです。
 
 山崎さんは、この日私と会ったのを覚えていませんでした。私たちは無事だったことを互いに話し、先生に命じられて二人で米を研ぎ、おかゆを焚いたのですが、記憶にないらしいです。原爆の時の記憶は、一つのことに気をとられ、後のことを忘れてしまう傾向があるのですが、彼女もそうで、山縣さんとの約束を守れなかったことのみが心に深く刻まれているようです。『広島第二県女二年西組』が刊行された時、彼女はそのくだりを読んで、シヨックを受けたようです。また、私は山崎さんと会った時を八日の午後か九日かよく分からず、八日と書きました。彼女は、その間違いに早くから気づいたようですが、なかなかそのことを言わなかった。自分が、私と会ったことを忘れているのに衝撃を受け、私に日付の誤りを言い出せなかったのです。
 ハードカバーの本がなくなり文庫版になってしばらくしてからですから、多分本の発行後、五,六年たってからでしょう。あるとき「あなたと会ったのは九日だろうと思う」とポツンといったのです。家に帰る途中、駅のそばで張り紙を見た。それに、ソ連参戦のことが書いてあって「大変なことになったなあ、と思ったのを確かに覚えている」というのです。私は即座に「彼女の記憶の方が正しい」と思いました。「もっと早く言ってくれたら」と思いましたが、彼女の複雑な心境を察すると、何も言えませんでした。
 この間違いは二〇一〇年五月文庫第六刷りを発行した時ほかの二カ所の訂正とともに直しました。二〇〇五年五刷の後増し刷りがなく、訂正の機会を逸していたのです。山崎さんはその二年ほど前に亡くなっていました。「ごめんね」訂正が遅くなったことを天国の彼女に詫びながら、私は、山崎さんのトマトへの痛恨の思いを改めて考えずにはいられませんでした。

とうろう流し.jpg

                              原爆の図 『とうろう流し』

 中山士朗から関千枝子さまへ

 約束のトマトが届けられなかった話は、心に深く残りました。読ませていただきながら、もし、私がトマトを食べることができないまま死んだならば、父は、山崎容子さんと同じように、終生、そのことに心を縛られていたにちがいありません。
 敗戦の夏が語られるとき、戦災者の言葉のなかにトマトの話がしばしば登場するのはなぜなのかと考えてしまいます。父が他家の畠から青い未成熟のトマトを盗んできて、私に食べさせたように、他の戦災地でも、詫びながらトマト泥棒をした人の話を、新聞で読んだことがあります。
 今日はカボチャについて書いてみます。
 あの日の朝、家を出るとき母が「ごめんね。今日の弁当のおかずは何もなくてカボチャなんよ」と詫びるようにして言いました。私は受け取りながら、「カボチャが嫌いなのは、よう知っとるじゃろうに」と悪態をつき、防空頭巾と水筒が入ったリュックサックの中に、それを手荒に放り込んだのでした。
 そのとき、母の目に涙が浮かんでいたのが、現在でも鮮明に思い出されます。
 そのカボチャは、町内会長だった父(その頃は、警備召集で市外、草津の山奥で横穴防空壕構築の作業に従事していました)の仕事を手伝っていた北海道出身の片岡さんが、「マサカリカボチャの種です」と言ってくれたものを撒いたものでした。その名のように,鶏小屋の屋根に蔓を這わせ、斧で割らなければならないほどに大きく成長し、配給が途絶えても、立派に代用食の役目を果たしたものです。
 前回のトマトのところで、家庭菜園について触れましたが、今の人たちには、ベランダでミニトマトや香味野菜を栽培している光景が想像されるのではないでしょうか。戦時中は食糧増産が叫ばれ、学校の運動場も耕して甘藷が植えられ、民家にあっては庭を壊して畠にするよう奨励されたのでした。そして肥料は、下肥を汲み取って撒布したものです。
私の家では、トマトのほかに、ナス、キュウリ,甘藷などを植え、また鶏を飼って採卵したりしながら食糧不足を補っていました。たまたま、八月六日の朝は卵がなく、やむなく弁当のおかずがカボチャになったわけですが、私は食べ飽きていてつい不満を口にしたのでした。
 爆心地から一・五キロメートル離れた鶴見町で被爆した私は、避難した比治山の山頂付近から兵士に背負われて、東側の中腹にあった臨時の救護所に収容され、連絡が取れて迎えが来るまでの六日間、背負って来てくれた兵士の世話を受けながらそこで過ごしました。
そこは、民間の別荘を軍が借り上げ、通信隊の宿舎にしていたところでした。
 私は玄関を入った直ぐのところにあった医務室で若い軍医から診察を受け、手当てを施された後に、畳敷きの広い廊下に囲まれた大広間に運び込まれて横になりました。兵士は私が背負っていたリュックサックを枕がわりに頭にあてがい、水筒に冷たい井戸水を汲んで来てくれました。
 焼けただれ、切り裂かれて,とうてい人間とは思えない異様な姿、形に変わった負傷者が次々に運び込まれて、大広間はたちまち呻き声や、泣き叫ぶ声、助けを求める声、そして肉体の皮膚が焼き削がれた異臭、傷口から発散する分泌物からの死臭にも似た臭いが充満し、修羅場と化しました。
 夜に入ると、大広間の一角で通信機の赤いランプが点滅する薄暗い部屋では、肉親を捜し求める人々がひっきりなしに訪れ、呼びかける声が重なり、交錯しました。
 私の右隣には、孫を火の中から救い出せぬうちに、消防団の人に抱えられて逃げて来たという老女が、「これから孫を探しに行かなければ死んでも死にきれん、娘に申し訳がたたん」と半狂乱になって夜通し泣き喚いておりましたが、その声も明け方近くには消えました。朝、兵士たちによって遺体は外に運び出されましたが、その時、兵士の軍靴の底が畳の表面に当たって擦れる音が、私の耳のすぐ近くで響きました。
 私の世話をしてくれた兵士は、顔全体が火傷して腫れたために握り飯を食べることができない私のために、お粥を運んでくれ、「食べないとだめだぞ」と励ましてくれたのでした。
それまで気が張っていた私ですが、次第に意識が薄れ、昼夜の区別がつかなくなり、自分も周囲の人たちと同じように死んでいくような気がしました。
 その前に、一目でいいから家族に会いたい、とりわけ母に会って、家を出るときカボチャのおかずについて不平を言ったことを詫びてから死にたいと思いました。
 連絡が取れて六日目に父、翌日に母に会った時、私は抱きついて嗚咽しながら、「これでもう死んでもいい」と言ったのを今でもはっきり思い出します。
 後日、母は、あのまま会えなくなっていたら、悔やんでも悔やみきれないと思いながら、私を探して歩いたと言いました。私を家に連れ帰り、荷物を整理した時、リュックサックに入れられたままのカボチャの弁当は、腐敗して液状になっていたそうです。
 あの日の朝、死んだ子供になぜ十分食べさせてやらなかったのか、と後悔した母親のなんと多かったことか。
 私は、戦後しばらく、カボチャを口にできませんでした。

(写真)『原爆の図』 東松山・丸木美術館


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