SSブログ

バスク物語 №2 [雑木林の四季]

                                                
プロローグ ●最初に出会ったひと-ホセ・マリア・アスピアスさん

                                文筆家・翻訳家  狩野美智子

 ホセ・マリア・アスピアスさんは、私が出会った最初のバスク人です。
 今からもう二十年はど前のことです。初めての外国旅行の途中、パリでバスク亡命政府を訪ねました。サンジエ街にあったその事務所で、バスク大統領の秘書をしていたアスピアスさんに、バスクについて、ゲルニカ爆撃について、いろいろお話を伺ったのでした。
 初めは随分とりつきにくい方でした。英語で最初お聞きした時、「英語はわからない」とこベもなかったのです。ところが、私が習いたてのスペイン語で話しますと、喜色を満面に浮かべて、ほとばしるようにいろいろお話をして下さいました。ゲルニカ爆撃の写真を探して下さり、バスクの蒙った痛手が、現代の戦争による被害の、世界最初のものだったことをいわれたのが印象的でした。
 一九六九年のその年も、バスクはフランコ政権の圧政の下にありました。この時いただいた「バスクの地」という新聞には、バスクの司祭たちが、バスク人の人間としての自由を求めるハンガーストライキに入った記事がありました。ETA(「バスク祖国と自由」)は、バスク国民党から、十年はど前に分離して、すでに活動を続け、又、それに対するフランコの警察の弾圧も職烈なものがありました。
 エンバクというフランスバスクで組織された、反フランコのグループの機関紙は、拷問の特集を組んでいました。ETAの容疑で逮捕された十六人のバスクの青年が、プルゴス法廷で死刑の宣告をうけ、世界の世論が死刑反対にわき上り、フランコ政権への批判が高まったのは、次の年の碁でした。
 この時、アスピアスさんが引き合わせて下さったバスク大統領を、私はあとまでアギーレ氏だと思っていましたけれど、アギーレ氏は一九六〇年に亡くなり、そのあとを継がれたレイサオラ氏だったのでした。彼は、鶴のように痩身の上品な紳士でした。今でもお元気で、バスクのいろいろな行事に出席なさっています。
 アスピアスさんとは、その後断続的にお手紙のやりとりをし、しばらくは私のスペイン語の文の添削をして下さいました。
 二度目にアスピアスさんにお会いしたのは、一九八三年九月です。その年に私は勤めをやめて、長い間果せないでいたバスクの勉強を始めようと、バスクを訪れたのです。
 先ず着いたマドリッドで買った週刊誌に、「雨の神様がバスクの上で泣かれた」という記事がありました。八月二十六、二十七日に降った大雨が、未曽有の大洪水をひきおこしたというのです。チャマルティン駅から出る夜行「コスタ・バスカ」は、ビルバオの手前ビットリアまでしか通ぜず、そこからビルバオまではバスで運ばれました。
 まだ十分水の引いていない、ぬかるみのビルバオ駅横の広場に着きますと、降りるなり、「アスピアスウ」と自ら名乗って大きな手を出されました。
 フランコの死後三年目に、パリのバスク亡命政府は店仕舞をして、バスクに凱旋しました。バスクの自治は、新政府によって、不満足なものではありましたけれど、認められて、三代目の大統領として、ガライコエチェア氏が選ばれていました。アスピアスさんは、パリでの残務整理を終えてから、引退して、それ以来ずっとビルバオにお住まいです。
 ビルバオの目抜き通りグラン・ビアにあるコルテ・イングレス・デパートの七階のカフェテリアに、アスピアスさんは、毎日十一時に入りカウンターの角のきまった場所でコーヒーをすすります。彼に会いたければ、そこで会うことができます。彼の友達もよくそこに集まってはしばらく冗談を言いあったり、情報を交換しあったり、にぎやかにおしゃべりを楽しんだりしています。
 ァスピアスさんは、奥様を早く亡くされ、二人の男の子を、亡命生活の中で苦労して育てました。その二人はとうに独立して、彼は今、一人暮らしです。一九〇九年の生れ、今年七十八歳。元気なおじいさんです。     (87・10・30)

『バスク物語』彩流社


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0