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アナウンサーの独り言 №41 [雑木林の四季]

菊五郎の少年時代

                         コメンテイター&キャスター  鈴木治彦

 歌舞伎の菊五郎と私とは縁続きである。私の母、信子と菊五郎の母、珠子(梅幸のつれ合い)が従姉妹同士だから、私たちはハトコ同士ということになるのだろう。小さい頃から家ぐるみのつき合いでお互いの往き来があったから、色白のポッチヤリ、おっとりした彼の子供時代のことも私はよーく覚えている。
 みんなからヒーちゃん、ヒーちゃん(本名寺島秀幸)と呼ばれて可愛がられていた彼は、泣いたあとなど眼の下のあたりがポッと桜色になったりして、「ずいぶんきれいな顔をした子だなア」と思ったものだ。性格的にもまったくおとなしくって自己を主張したりしない子で、姉の清江よりもむしろひ弱だった。五つぐらいの頃だったか、辻堂のわが家へ遊びにきた時も、口数少なく一人黙々と庭の池のほとりの石の上で鯉を眺めたり、私の弟、通弘と二人でまことにノンビリ、ゆっくりしたテンポで「はさみ将棋」をやったりするような静かな子だった。
 その彼が昭和二十三年四月、六つの時に役者として初舞台をふんだ。お祖父(じい)ちゃん(六代目菊五郎)の『助六曲輪菊』(くるわのももよぐさ)に、父梅幸の茶屋のお内儀(かみ)に手をひかれ、禿(かむろ)で出たのである。狂言半ば、七代目と先代幸四郎が口上を述べる横に、これもお披露目(ひろめ)の清元延寿太夫と並んで、彼はチョコンとお行儀よく座っていた。あのかわいらしい姿は今も忘れられない。
 また、その年の十月、今度は『義経千本桜』の〝すしや〃でお祖父ちゃんのいがみの権太に彼は息子の善太で出た。そして、それが祖父六代目との最後の舞台になってしまった。彼は祖父の舞台の記憶はほとんどなく、わずかに鵠沼の家へ遊びにいった時のマージャンをやっている祖父の姿や、稽古場で遊んでくれた祖父を覚えているにすぎないという。六代目はよく「ほかのやつらは俺をこわがるのに、あいつだけは、ちっともこわがらねエ」と幼い頃の菊五郎のことをいかにも嬉しそうに語っていたものだ。
 その後、彼(当時丑之助)は『寺子屋』の小太郎、『お夏狂乱』の里の子、『め組の喧嘩』の又八、『すしや』の六代君、『土蜘』の石神、『鏡獅子』の胡蝶、『盛綱陣屋』の小四郎、『実盛物語』の手塚太郎などを次々に演じたが、舞台のほうは正直いってもう一つパッとしなかった。我々親類縁者もハラハラ、ヤキモキさせられたものである。親が「舞台へ出ろ」っていうから素直に出ているだけといった感じで、ほかの子を押しのけてとか、ほかの子より目立とうなどというところのまるでない舞台だった。よくいえば「オットリおおらか、育ちのよい坊ちゃん」的な雰囲気のみが目立っていたように思う。
 この 「オットリとした優美な品のよさ」は、菊五郎になった今もまったく変わらぬ彼の大きな財産で、わが一族のなかではまさに白眉の希少価値である。が、当時の彼からは、ただそれ以外やる気も熱意も感じられなかったのが、見守る我々には物足りなかった。
 それがいつの頃からか、突然、その彼に鋭い切れ味とヒラメキが加わった。やる気もみえてきた。ぐっとたのもしくなった。持ち前の優美さにそれらが加わったので魅力も倍増したわけだ。いったい、いつの頃からだったろうかといろいろ思いめぐらしてみると、どうもあのNHKテレビの大河ドラマ『源義経』の主役に抜擢されたことと、舞台では昭和四十一年七月歌舞伎座の錦之助公演でやった『弁天小僧』あたりが、その転機というか、きっかけになったような気がする。
 『源義経』で一躍お茶の間の人気者になり、自分というものに自信を持ったこと、義経人気が東横ホールなどでの若手歌舞伎公演へも波及して、舞台が面白くなったこと、などがその原因だろう。
 なかでもあの時の『弁天小僧』には目をみはった。少々身びいきでみても、花があり強さもあり、フテブテしさもあり、父梅幸にも勘三郎にもない不良少年っはい魅力にあふれていた。いかにも弁天小僧そのものが出てきたようでワクワクさせられたものである。現在でも私は菊五郎の役のなかで好きな物を一つといわれれば、ちゅうちょなくこの『弁天小僧』を選ぶくらい好きだ。
 舞台に自信がみえはじめてからの菊五郎は平常(ふだん)もまことに男っぽさを増し、女性をひきつける魅力もいっぱいだ。口調にしてからが「冗談じやねえや」とか、「ひでえこといいやがる」とか、「いいかげんにしろよ」とか、小気味いい言葉がポンポン飛び出す。江戸前で威勢がよくって……どこか亡き花柳章太郎を思わせ、嬉しくなるほどである。あんなにおとなしくって、ホワッとしていただけの子供の頃の彼を思うと、まるで嘘のようだが、『弁天小僧』だけでなく、どんな役にも一本シンが通るようになった菊五郎。だから彼には今後十五代目羽左衛門や祖父六代目の役どころである二枚目からいなせな立役……たとえばお祭佐七、め組の辰五郎、石切梶原、敦盛、勝頼、十次郎などを片っぱしから手がけていって自分のものにしてほしいとつくづく思う。サンシャイン劇場の開場(こけらおとし)にも、お富でなく与三郎-これが彼菊五郎の未来のあり方(立役七、女形三)を暗示しているようだ。
                        (『いんなあとりっぷ』昭和五十四年二月号)

『アナウンサーの独り言』光風堂出版


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