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詞集たいまつ №54 [雑木林の四季]

さばく章

                                ジャーナリスト  むのたけじ

(2076)仏典『仏陀(ぶっだ)の言葉』に死にかけている人への語りかけが記録されている!「あなたが死なないで生きられる見込みは千に一つの割合だ。あなたよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ」。何の慰めも気休めも彼は口にしなかった。祈りなさい、すると助かる、助けてあげる、なんて彼は言わなかった。死後のことどころか死それ自体についても言及しなかった。生命の一〇〇〇分の九九九まで失ったと見える人に「生き通して善行を心掛けなさい」とすすめた、それだけでした。釈迦だろうが不釈迦だろうが人間が自分の言葉に責任をもって他人に言える究極の一旬は、「命ある限りお互いに生き通しましょう」だけではないか。いま釈迦と呼ばれる生没年不詳の人物は、まざれもなく人間だった。それを神秘化した者たちが彼を二度死なせた。

(2077)ひどく悲しいとノドを物が通らなくなり、水すら飲みたくない。これこそ人間の救いですね。やがて必ず水を飲みたくなり、飲めば食いたくなり、飲み食いすれば元気が出る。人間の体と心の働きはそのように出来ている。悲しいときは、だからとことんまで悲しむことだ。それがどんな慰めや励ましの言葉よりも効く。

(2078)体裁だけの悲観は、根拠のない楽観に劣る。根拠のない楽観は・やがて必ず悲観を味わうが、体裁だけの悲観は、悲観も楽観も味わえない。

(2079)「旅先で枕が変わると眠れなくて困る」という人に「では自宅では?」と問うたら、「いや自宅でも寝つきが悪い」と答えた。寝つきのよしあしは生活態度からくる性だ。昼間に存分に働けば夜分にはぐっすり眠る。尻を枕にもっていくのは、きたないごまかしだ。

(2080)何かにつけ他人や他家のうわさ話を好む民衆も、話題が嫉妬そして虚栄のことになると、途端に口が重くなる。検事にも弁護士にもなりたがらない。なぜだろう。嫉妬そして虚栄は、物語の中でしばしば思わぬ害を働く蛇にたとえられる。その蛇が自分の中みにも生息していることに誰もが気付いているので、それに触れたがらないのでないか。自分も同じ不幸の仲間であるのに、自分は別だと思うとき、人はうわさ話に熱をあげる。

『詞集たいまつⅣ』評論社


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