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アナウンサーの独り言 №40 [雑木林の四季]

親父ゆずりの芝居ばか

                         コメンテイター&キャスター  鈴木治彦

 私の芝居好きは、親父(おやじ)ゆずりである。親父ぬきでは〝わが歌舞伎〟は語れない。なにしろわが親父(新助)ときたら、そこらにいるようなただの芝居好きとはちょいとばかり桁が違う。
 まあ、はじめのうちはおとなしく桟敷(さじき)や客席から舞台を見ちゃあ楽しみ、仲のいい役者さんの楽屋へ入り込んではおしゃべりをして満足するというような、ごくありきたりの芝居好きだったらしい。だが、そのうち、どうもそれだけでは物足りなくなってきたとみえる。
 たまたま親しかった牛込山伏町の清水俊雄家のお邸(やしき)のなかに、創美闇(そうびかく)という本物そっくりの芝居小屋が出来あがり、そのこけら落としをやろうということになった。この豪勢な話をきくと、生来の芝居心がムクムクと頭を持ち上げた。時は大正十二年、親父二十三歳の春だったそうだ。そのこけら落としにはなんと『勧進帳』が出た。弁慶がずうずうしくもわが親父。富樫が長身美男の清水康雄氏(のちの清水建設社長)で、義経がその実兄でこの邸のあるじ清水俊雄氏。親類縁者や友人たちが集まって、この素人『勧進帳』に拍手を贈ったというから、思えばいい時代である。
 この『勧進帳』ですっかり味を覚え、舞台がやみつきになった親父は、震災のあと、今度は片岡千恵蔵氏(当時十一代目仁左衛門の弟子)や女形の市川壽美若氏をひっぱり出し、共鳴座という混成一座をつくって、役者のまねごとをおっぱじめた。その時の出し物は『露台にて』と『雪の降る夜』の二本立てだったというから、恐れ入る。
 この共鳴座はわずか一回の公演で、あとが続かなかったようだが、それにもこりず、またまた大正の末、今度は雷座なる一座を素人ばかりで結成。その一座には金杉台三(のちの三井銀行重役)桐島竜太郎(現明治屋クッキングスクール校長)、西園寺公一(中国通の文化人)、岡田敬(のちの映画監督)、山田洋(のちの味の素KK会長)、武井艮介(こんすけ)(のちの東京銀行常務)、田実渉(現三菱銀行会長)、金杉惇郎(のちのテアトルコメディ)といった人々が顔をつらね、役者から裏方まで力を合わせて久米正雄の『地蔵教由来』とか、有島武郎の『吃又の死』とか、吉井勇の『小しんと焉馬(えんば)』なんていうむずかしい芝居をやっては悦に入っていたらしい。
 もともとわが親父は神田に古くからあった『一木(いちぼく)』という酒問屋の次男坊だった。祖父が当時、歌舞伎役者をひいきにすることが道楽で、大名題をしばしば自宅などへ招待しているうち、その息子さんたち(つまり現在の大幹部。仁左衛門、歌右衛門、故三津五郎、勘三郎、故富十郎、故段四郎、故福助の各優)と仲よしになり、だんだんと芝居の面白さのとりこになっていった。そもそもそれが父と芝居のつながりのはじめらしい。
 そして、そんな親父の〝門前の小僧〃がすなわち私なのである。でもいくら〃門前の小僧〃でも、親父のように役者にまでなってしまう度胸や才能はさらさらない私だから、同じ芝居好きとはいってもそのスケールの点で、はるかに及ばないなアとつくづく思う。
 雷座でいよいよ味をしめた親父のエスカレートぶりはもう手のつけようがなく、昭和八年坂東蓑助氏と青柳信雄氏がはじめた研究公演『新劇場』に参加。最初は文芸部を手伝っているうち、御橋公(みはしこう)氏がたおれたあと、ピンチヒッターとしてかり出され、それが渥美清太郎先生の目にとまってほめられた。これに気をよくしてまたまた、舞台へ立つことになったのだそうだ。親父のことだから内心ホクホクで〝好機きたれり〃と思ったに違いない。
 この新劇場がきっかけになってたどりついたところが、日比谷の有楽座を本拠にした第一次東宝劇団である。
 スタート当初は前記の蓑助氏や神田三郎氏など無人一座だったところへ、二回目の公演から市川寿美蔵(のちの寿海)氏が松竹から参加。次いでもしは(現勘三郎)、芦燕(現我童)、福助(高砂屋。故人)氏たちが加わり、さらに高麗蔵(のちの十一代目団十郎。故人)氏も入って、かなり態勢も整った劇団となった。そのほか、夏川静江、一の宮敦子、高橋豊子の女優陣に沢村宗之助、雄之助、敞之(しょう)之助三兄弟もいたし、今をときめく森繁久弥氏など『宮本武蔵』の戦場の死骸役で出ていたとうから、今もし全員が顔を揃えたら、かなり金のかかる一座だったろう。
 そのなかへズブの素人から割り込んで、しかもどこから探し出し、どこにどう話をつけたのか知らないが、中島三甫右衛門などというだいそれた芸名を名乗ってシャーシヤーと芝居をしたんだから、かなりずうずうしい。
 その影響を物心つくかつかないかの頃から受けて育った私が、今のように芝居好きになったとしてもけっして不思議はない。だが、なぜか私は親父の舞台姿なるものを見たことがない。あとになってからわかったことだが、どうも母や親戚の伯父伯母たちが極力私に見せまいみせまいとつとめた節がある。
 というのも、当時の親父の立場は親類(とくに母方の)のなかでまったく孤立していて、「皆の反対を押しきって役者のまねなんかしやがって」と、親戚中の面(つら)よごし的扱いで、母方のすべての親戚からは出入り差し止め。そのために私の母もひどく肩身のせまい思いをしていたというから、息子の私を堂々と父の舞台をみにつれてゆけるような雰囲気ではなかっただろうことは容易に想像出来る。当時末娘の母の気持ちをふびんがってなにかと父のことをかばったのは、母方では祖母のうめだけだったという。
 そんな風当たりの強いなかで親父は召集され中国大陸へ参戦したが、帰還してからは猿之助(のちの猿翁)氏の春秋座の『水野十郎左衛門』へ出たりしているうち、あいかわらずの圧力にいや気がさしたのか、昭和十四年の東宝劇団満州巡業を最後にすっぱり役者をやめてしまった。
 私はついに一度も親父の舞台は見ずじまいだが、こっそり覗(のぞ)いた戸棚の奥のアルバムには、そうそうたる役者さんたちと一緒に写っている『太閤記』『国姓爺』や『左馬頭義朝』『瞼の母』『ポーギー』『貸別荘とお嬢さん』等々の父の舞台姿の写真があったことを今でもはっきり思い出す。このアルバムは親父も余程大切だったらしく、横浜で空襲にあった時、焼けては大変だと、真っ先にこれを庭の井戸のなかへ投げ込み焼夷弾から守っていたもの。
 家にあった雑誌といえば、右を向いても左を見ても創刊号以来の『演芸画報』や『映画と演芸』ばかり。『演芸画報』の「劇評」や「芝居見たまま」が大好きで、一心に読みふけっては、名優の舞台を想像していたんだから、我ながら変な子供だったと思う。
 とにかく雑誌の舞台写真や記事による目学問がもっぱらだったわけで、本物の歌舞伎の舞台を見せてもらったのはかなりあとである。いってみればインドアーで十分練習を積んでから、はじめてグリーンへ出してもらったゴルファーみたいな塩梅(あんばい)だったから、はじめて舞台を見た時の喜びはどう表現していいかわからないほどであった。
 それまで、断片的に聞く父の芝居話や『演芸画報』による知識で、たとえば有名な見得(みえ)など、型まですっかり覚え込んでいた耳年増、目年増だから、本をはじめてみても、まったくはじめてという気がしない。ただ『車引』なら『車引』で、自分がよく知っている見得が出た時になってやっと安心し、「あ、これこそ『車引』だ。本物だ」と納得するようなこともしばしばあった。
 私は先代歌右衛門、先代梅幸、先代左団次、といった名優の舞台を知らない。先代雁治郎も先先代仁左衛門も知らない。知っているのは十五代目羽左衛門に、七代目幸四郎、先々代宗十郎、六代目菊五郎、先代吉右衛門に先代延着、梅玉から以後である。
 そしてはじめてつれていってもらった舞台はというと、羽左衛門、菊五郎(六代目)の『落人』に、羽左衛門の『盛網陣屋』。それに菊五郎(六代目)の『勘平の死』だった。やはりなんといっても本物の迫力は目をみはるほどのすばらしさで、とくに十五代目の名調子の、想像をはるかに越えた見事さには完全に魅了された。
 それ以後、十五代目の舞台だけは、なにがなんでもみにつれていってもらうようにつとめ、『賀の祝』の松王と桜丸の二役、『勧進帳』の富樫『石切梶原』『源太勘当』、それに戦時中、羽左衛門にだけ許された『切られ与三』などを、それこそ食い入るように眺めたことを覚えている。それだけに羽左衛門が戦争末期、信州の湯田中で淋しく亡くなったという小さな新聞記事を読んだ時、「ああもう歌舞伎もおしまいだ」とほんとうに目の前がまっ暗になったものだ。
 じっは私の母の従妹(珠子)が菊之助(現梅幸)と辻堂のわが家のダンスパーティーで知り合ったのがきっかけで恋愛結婚しているから、音羽屋の家とは一応親戚関係にある。だから本来なら私としては、もっともっと六代目の芝居を夢中になってみてもよさそうなものだが、あの頃、子供心にも「せりふのちっとも聞こえない」六代目、「舞台を投げる」六代目の芝居はどうしても好きになれなかったのである。とにかく羽左衛門一辺倒だった。
 そんな私の歌舞伎熟は、戦後慶応の中等部へ進んでから尊敬する池田弥三郎先生 (当時国語の担任)の影響もあってますます上昇。高校へ上がると同時に、無理にお願いして大学の歌舞伎研究会へ入れていただき、脚本朗読では『太十』の十次郎を初体験したし、さらに三十周年にはついに白塗りの『弁天小僧』をいい気持ちでやってのけるほどにまでずうずうしくなってしまった。
 こんなわけで、これからのちもプライベートな楽しみとして、また、テレビの仕事の面で、絶対私は芝居から離れられないだろう。とくに仕事の面では、過去父からなに気なくきかされていた話が、どれだけ役立っていることか。それを思う時、〝永遠の芝居ばか〃わが親父に心から感謝せずにはいられない。
                               (『演劇界』昭和五十五年七月号)

『アナウンサーの独り言』光風堂出版


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山田將貴

はじめまして、山田と申します。私の祖父が歌舞伎役者だと聞いていましたが、父が七歳頃に祖父の三郎が亡くなったとの事でしたので父にも記憶があまりなく、ちゃんと祖父の話を聞いた事がありませんでした。そんな中、何となくネットで名前を入れて検索したら神田三郎の名前が出てきてビックリしました。
父が第一次東宝歌舞伎なんだと言っていたので間違えないな!と、確信しました。
家には祖父の役者姿の写真や芸能関係の会員証みたいな物は少し残っています。
知ってる方がいらっしゃって凄く嬉しいです。ありがとうございました!
by 山田將貴 (2013-02-27 12:45) 

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