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西北への旅人 №54 [雑木林の四季]

わが学生時代の読書

                               元早稲田大学総長  奥島孝康

 私が生まれ育ったのは四万十川の源流に近い人口二〇〇〇人足らずの山村。家計の状態からは、大学進学などおよそ考えられませんでした。しかし、進学しないで働いても、自分一人食べていくのが精一杯。それなら進学して、後は自力で生きていこうと思ったのです。
 現役のときに受けたのは国立一期校と二期校だけで見事に失敗しました。失敗の原因は数学。数学は好きな科目でしたが、じっくり考えすぎるきらいがあり、試験時間が足りなくなってしまうのです。浪人中は、この弱点克服のため、数学ばかり勉強しました。しかし、二期校の代わりに一校だけ受けて最終的に入学することになった早稲田の第一法学部では、数学は入試の選択科目ですらなかったのですから皮肉なものです。それでも、数学に打ち込んだこの一年間が無駄だったとは考えていません。青春時代に、一つのことに迷わず打ち込むことは何であれ大切なことだと思います。
 入学金は叔父が出してくれましたし、奨学金も受けられたので授業料を払うメドも立ちました。あとの問題は、飯を食うことと住む場所の確保でした。運輸会社の貨物係から雑誌の印刷所、百貨店の包装係から道路工事まで肉体労働は何でもやりました。大学の学生生活課で紹介してもらった下宿は、大家さんの小学五年生の子どもと同じ部屋に住んで、週に三回、一回二時間家庭教師をすれば、家賃だけは払わなくともよいという条件でした。生活の心配はなくなりましたが、大学に行く時間がなくなりました。
 ある日、授業に出てショックを受けました。それまで、クラスメートのことを、「都会の学生といっても大したことはない」と高をくくっていたのですが、英語がうまいやつもいれば、ドイツ語がよくできるやつもいる。もうかなり法律書を読んでいるやつがいたり、いろんなことを知っているやつもいる。「これはいかん」と思い始めたわけです。
 そうは言っても、法律の本はチンプンカンプン。そこで、まず岩波文庫の白帯(社会科学系) と青帯(哲学系)を全部、さらに当時まだ五〇〇点に満たなかった岩波新書を全部読破する目標を立てました。内容が分かろうと分かるまいと、無我夢中で読みましたが、二年生の途中から突然、わかるようになってきたのです。その後、条件のよいアルバイトの家庭教師先が四軒見つかったので、時間的な余裕もできました。猛勉強が始まったのはここからです。
 卒業後の進路は、随分迷いました。公務員、石油発掘会社、製鉄会社などへの就職も考え、就職活動も二社だけしてみました。そのとき、大学院進学を勧めてくれたのが、ゼミの指導教授の中村真澄先生でした。先生は「大学院に一番の成績で入れば、授業料は免除される。奨学金も毎月もらえる。やってみないか」と言うのです。
 これからの時代は、外国語や外国法をしっかり勉強しておく必要があるとも考えていました。「受ける以上は全力を尽くして一番をめざそう。それでだめなら仕方ない」と心に決めました。四〇〇人余りの受験者の中で幸い、一番で合格しました。これが人生の岐路となりました。
 大学院を修了するとき、考えたこともない助手になるよう勧められました。自信はないのに、本を読んで人生を送れるなら悪くないと考え、学者への道を歩き始めたのです。
 挫折や、つらい思いもした学生時代でしたが、自分が置かれている立場で全力を尽くして、大学院進学というチャンスに恵まれ、それが今日につながりました。学生にはいつも「一生懸命やれば、だれでも必ず一度はチャンスがめぐってくる」と言っていますが、それは自分の実体験がもとになっているのです。      
                      〔『産経新聞』「九九七年五月二三日夕刊〕

『西北への旅人』成文堂


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