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立川陸軍飛行場と日本・アジア №50 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

即位の大礼の準備着々と進む

                          高校教師・近代史研究家  楢崎茂彌
 
 前回“一方オイローパ号は多摩川原で三菱の技師達によって修理され、23日朝ようやく目的地の立川陸軍飛行場に到着しましたが、主がいないのはさびしいですよね。”と書きましたが、実はリンドネル大尉が早起きして、7時半には多摩川原から立川までオイローパ号を操縦していきました。不正確な記述をお詫びします。リンドネル大尉はこのあと東京に引き返し、11時半にはフーネフェルド男爵達と、渋谷にある久邇宮(帝国航空協会総裁)邸を訪れ航空協会の有功賞を授与され、午後には東京會舘での午餐会に臨んでいます。この日の新聞は、大礼行還幸啓(天皇はお召し列車で東京駅から京都に向うので、皇居から東京駅を往復するわけです)当日(11月6日と27日)の皇居付近の交通整理区域が決まったことを伝えています。
 大正天皇の「大喪の儀」は昭和2(1927年)12月26日の「大祓の儀」をもって終わりました。そして12月30日には大礼使官制が公布され、「即位大礼」の日程が決定しました。翌年1月17日の「期日報告の儀」に始まり、11月10日の「即位礼」、さらに11月14日・15日に行われる「大嘗祭」、30日の「皇霊殿・神殿親閲の儀」で終わる長い即位の大礼が始まります。

 第五連隊機敵陣に着陸! 第二回特別航空兵演習
 連載第30回で第1回陸軍特別航空兵演習を扱い、“「東京朝日新聞」(1925.9.29)は“因みに特別航空演習は何分多額の経費を要することとて毎年度施行すること困難なため今後は隔年毎に施行する由”と伝えています。軍縮は経費削減の目的もあったわけですから尤もなことです。”と書きましたが、3年後のこの年、第二回陸軍特別航空兵演習が9月25日から4日間愛知・岐阜・静岡上空で行われました。50-1.jpg東軍は飛行第1連隊(各務原・戦闘)・飛行第2連隊(各務原・偵察)・飛行第7連隊(浜松・爆撃)・下志津飛行学校で構成され戦闘機24機・偵察機16機・軽爆撃機6機、一方の西軍は飛行第3連隊(八日市・戦闘偵察)・飛行第5連隊(立川・戦闘偵察)・飛行第7連隊(浜松・爆撃)で構成され戦闘機24機・偵察機6機・重爆撃機3機、これに統監部飛行機19機を加えると、前回の倍以上にあたる98機が参加する大演習となりました。もちろん前回同様に歩兵部隊・騎兵部隊・高射砲兵部隊も参加しました。戦闘の想定は東軍が三方原を拠点として濃尾平野を占領する作戦を展開し、各務原を拠点とする西軍がこれを撃退するというものです。
 東西両軍飛行隊は25日午前9時には拠点に結集して準備を整える予定でしたが、雨にたたられてしまい西軍機は一機も各務原に到着出来ません。この様子を名古屋新聞(1928.9.26)は“正午を過ぎても西軍根拠地へ来るべき飛行機一台も姿も見せず雨はふり続いている。統監部の見学席のテントに雨を避難の一飛行将校「テントの雨の耐久実験にはもって来いだネ」と、負け惜しみもこのくらいになれば満点だが空を見上げる目のうらめしそうなこと。…三方ヶ原より電報来たって立川飛行第五連隊機三方ヶ原にアン着、天候回復を待つ、とわかったり。アン着のアンは案に相違のアンのことだと説明をきく、三方ヶ原は東軍の根拠地にして立川連隊は東軍の所属である、サテも大胆な”と茶化して報じています。飛行第5連隊機は午後2時45分にようやく自陣の各務原に到着しますが、敵地に安着してしまった飛行第5連隊としては名誉を挽回しなければならない立場になりました。同じ西軍の第3連隊戦闘機24機はこの日の飛来を諦めてしまいました。これでは不戦敗みたいなものですよね。そこで今回の演習の総監井上幾太郎大将は、午後7時になってようやく両軍に命令を発し、作戦開始は26日払暁にずれ込みます。
 26日早朝に西軍指揮官荒蒔少将は浜松方面に結集しつつある東軍の状況偵察に第5大隊(飛行第5連隊)を清水港上空に向かわせました。いよいよ作戦開始です。西軍第3大隊は名古屋上空で東軍偵察機と遭遇しこれを撃退、戦闘が始まります。26日の演習は重爆撃機を擁する西軍の優勢のうちに終わりました。
 27日、西軍は前線着陸場を小幡ヶ原演習場(現・名古屋市守山区)に移す作戦を実行し、両軍の空中戦が展開されます。西軍は28日には知立(名古屋東南の現・知立市)、打越(名古屋東の長久手町・打越)占領を目指し、東軍は矢作川を渡河し前進する作戦を展開しました。劣勢に立っていた東軍は西軍の小幡ヶ原演習場を軽爆撃機で攻撃破壊すると陸上部隊が前進を開始し、白兵戦が始まろうとした午前10時、統監部から戦闘中止の命令が発され演習は幕を閉じます。翌日には98機が空中大分列式を行い、学生、在郷軍人、青年団など2万人以上が見学に押し寄せました。どうやら第5連隊の名誉回復の機会はなかったようです。
 
 第八高等学校生徒、特別航空兵演習に動員される50-2.jpg
 連載第21回で触れたように、宇垣軍縮の一環として大正14(1925)年4月から中学校以上に配属将校が置かれ軍事教練が始められました。この特別航空兵演習には配属将校杉本少佐の指揮下500名の第八高等学校(現・名古屋大学の元教養部)生徒隊が動員されています。生徒達は27日に校庭を出発し天白村秀傳寺に置かれた西軍連隊本部に入りました。村はコーヒーや汁粉、梨などを準備して歓迎をしたようです。三寺院に分泊した生徒達は翌日から軍の指揮下に入り作戦に従事することになりました。制度が始まってまだ3年ですが、これはもう軍事教練の域を越えており、制服と制帽はあの学徒出陣を思わせます。50-3.jpg

 即位の大礼の報道準備が進む
 前々回(48回)に紹介したように、即位の大礼に備えて毎日新聞社はこの年ペラン式の電送写真装置を導入し8月27日には試験電送に成功しました。東京日日は、電話線を利用した電送写真(写真右)は我が国の民間では初めてのもので“男子は昨朝大阪毎日より電送してきたペラン氏…わざと修整を加えず製版した。もしこれに修整を加えて製版すれば紙上には更に鮮明に刷り出される”と胸を張っています。修整が前提か…。
 ライバルの朝日新聞社の電送写真は大きく遅れて、即位の大礼3週間前の10月21日の紙面を飾りました。朝日新聞社は春に電送写真装置導50-4.jpg入の社告をするとベルリンにあるシーメンス・ウント・ハルスケ社で製作を急ぎ、最新式のシーメンス・カルロス・テレフンケン式電送写真装置を完成し、シベリア経由で運ぶと、大阪・京都・東京に装置を設置したのです。記事は世界一の装置と胸を張っていますが、右の写真は上の毎日新聞のものと較べると明らかに解像度が勝っています。当日の東京朝日新聞は“一頭地を抜く朝日の装置、驚くべきその利用の範囲”と題した逓信省工務局長の談話を掲載しました。この機の優越性のお墨付きをもらったようなものです。東宮成婚報道写真空輸競争に敗れた毎日新聞は電送装置を先に導入したのに今回も負けそうです。遅れをとった毎日新聞が、日本電気が開発し試験段階にあるNE式電送写真装置を導入する社告を載せたのは即位の大礼直前の11月5日でした。大阪毎日新聞社・東京日日新聞社の社告は“同式機は我等が多年待望した純国産品であるにのみならず、その実験成績の優秀なる、ドイツ及びフランスの先進国製を凌ぐものがあることが明らかにされた”としながら、機械装置の写真を載せているだけで、電送された写真は公開されていません。さあ実用に耐えるのでしょうか。それにして、立川を舞台とした飛行機報道競争がなくなったのは残念です。

 即位の大礼中継に向けて日本放送協会の中継網工事急ピッチで進む
 日本のラジオ放送は1925年に始まり、この年に朝日新聞社がラジオを使って「朝風・東風」の訪欧大飛行ブームを盛り上げたことは連載第23回に書いたとおりですが、ラジオは東京放送局(JOAK)、大阪放送局(JOBK)、名古屋放送局(JOCK)が別々に開局しています。当時の放送出力は弱いので放送局の周辺数十㎞でしか受信できないため、逓信省が主導して大正15(1926)年8月、三局が解散・統合されて日本放送協会が設立され、日本中どこでもラジオを聞くことが出来るような中継放送網建設が計画されました。折りからの不景気に計画はそう簡単に実現はしませんが、即位の礼を昭和3(1928)年11月10日に行うことが決定すると、中継網の規模を縮小して工事が進められ、即位の礼直前の11月5日に全国放送第一声が発されたのです。竹山昭子さんが、「ラジオの時代」(世界思想社刊)でこの間の動きを詳細に研究記述されています。竹山さんが「知の木々舎」に連載した、「昭和の時代と放送  №22天皇報道に燃えたラジオ、 №23昭和天皇御大礼放送 ②御大礼放送へ向けて始動」をご覧下さい。こうして、昭和天皇即位の大礼を機に新聞・ラジオの報道体制が整えられて行きます。 

 立川の大典記念事業が時間励行・虚礼廃止とは…
  東京日日(府下版1928.923)は“ 立川の時間励行 変わった大典事業 立川町の大典記念事業は財政難の折から、金のかからぬ事業をと時間励行と冠婚葬祭の虚礼廃止等計画されていたが、時間励行の方は先ず町会が範を示す必要ありとその具体案につき過般来中島町長が考究中であったが、大体 一・定刻不参者罰金徴収法 一・出席多少にかかわらず開会する事 その他に内定し近く町会協議会を開いて諮ることになった”と報じています。多少の財政難対策になるにしても、遅刻者に罰金が記念事業とは一寸せこ過ぎない?実際に行われたかは不明ですが。
 帝国航空協会は10月21日から御大礼記念特別飛行競技大会を大阪で開きました。立川からも日本飛行学校と御国飛行学校から合計5名の一等・二等飛行士が参加しましたが、残念ながら好成績を挙げることは出来ませんでした。

写真上      「閲兵式」 (名古屋新聞 1928.9.30)
写真2番目  「地上部隊として参加した八高生徒の宿舎」 (名古屋新聞 1928.9.28)
写真3番目 「ペラン氏電送写真」 (東京日日新聞 1928.8.28)
写真4番目 「昨夜京都都ホテルにて中学生の提灯行列に答えられる秩父宮同妃両殿下」
                                         (東京朝日新聞1928.10.21)


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