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浜田山通信 №62 [雑木林の四季]

追悼録①

                                      ジャーナリスト  野村勝美

 暮になると生き残った者は、同時代を生きた死者を追悼する。ことしも先輩や知人、友人が先立った。長い付き合いの人も青春の一時期親しみ合った同年輩の人もいて、まことに彼岸繚乱である。いずれ当方も程なくあちらにいかねばならない年なので、以前ほどには別れが悲しくはない。ただ無性に淋しい。
 毎日新聞関係では、『毎日ライン』創刊当時の編集長の浜田琉司さんが6月18日に亡くなられた。私と2人で、売り上げ増のために1月の準備期間で創刊したのだから、いま思ってもよくやったものと思う。浜田さんは人間国宝の陶芸家浜田庄司さんの長男で、お父上が沖縄で仕事をしていた頃生まれたので琉司と名付けられた。若い頃、親の七光りを嫌がってか、あるいはは反抗してか、益子の親元を離れ、早大商学部に入学、卒業生総代だったという。自ら焼きはしなかったが。焼きものを手にのせて見る目付きは、そこいらの骨董屋など問題にならないほど風格があった。浜田さんのあとをついで編集長になった時、お願いして社員旅行で益子のお宅を訪ね、陶芸館の収蔵品を見せてもらったり、庄司さんの案内で登り窯の説明をしてもらった。あげく人間国宝じきじきの大皿の絵付けまでやっていただき、その雄渾な筆遣いに感心するばかりだった。
 浜田さんは、私の亡妻が手術する半年前に同じ胃がんで手術され、病気の先輩だといって何度となく術後の注意事項を電話や手紙で教えてくださり、妻はものすごくそのことをありがたく、心強く思った。(11月23日、妻の一周忌法要をやった。)
 9月には毎日社会部の先輩、安養寺喬さんが亡くなった。造船疑獄事件の時は、裁判所クラブでいっしょで、文部省クラブは私の先任者だった。バレエダンサーのお嬢さんが浜田山にいて、私が社をやめ、おもちゃ屋になってからも時折、店に来て頂いた。退社後も教育関係の仕事を続けた。
 浜田山では一番街の荒川水道屋さんのおばあちゃんが90歳で亡くなった。みずほ銀行の前にある荒川設備は、浜田山商店街の草分けの一軒で、私たちがおもちゃ屋を始めた時もお世話になった。もう20年も前に、ご主人が脳卒中で倒れ、おばあちゃんは毎日のように車イスに乗せて高井戸の区民センター通いをつづけた。そのころ、私もセンターへ碁を打ちに通ったのであいさつや世間話をした。
 浜田山商店会連合会で毎年歳末福引き大売り出しをやり、抽選所には長蛇の列ができた。ある年おばあちゃんは、二人の孫と抽選に来て、数本しかない特等を二本当ててしまった。そのときの孫二人も成人して、いまは父親とともに水道屋を続け、町内の評判もよい。
 商店会の福引大売り出しも3年前に中止になった。チェーン店が主力となり、福引きに参加する個人商店が減ったためだ。夜7時には暗くなる商店街に景気が戻ることがあるのだろうか。 


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