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チェーホフの中の日本 №29 [文芸美術の森]

ヤルタの庭と桜 その4

                                 神奈川大学名誉教授  中本信幸

 『桜の園』に登場するラネーフスカヤ夫人、その娘アーニャ、従僕のヤーシャは、パリからラネーフスカヤ夫人の領地に帰ってきた。先祖代々の領地「桜の園」が競売に付され、農奴の小件だった商人ロパーヒンに買い取られ、もはや収入をあげなくなってしまった「桜の問」は切り倒され、別荘地に造成されてしまう。ラネーフスカヤ夫人は、パリで待っているヒモ同然の男のところへ帰って行く。
『桜の園』からもわかるように、80年代、90年代には、パリの社交界の空気がロシアの社交界にそのままつたえられていた。従僕のヤーシャは、すっかりパリの空気にかぶれているではないか。ときに、「日出づる国」あるいは「桜の国」という日本のイメージが、ロシアにも定着しょうとしていた。
 スタニスラフスキーは、実利的な「ヴィーシニェヴィ・サート」 については、「そういう園はいまも必要だ」と言い、非実利的な「ヴィシニョーヴィ・サート」 については、「それを絶やすのは惜しいけれど、そうしなければならない、なぜなら国の経済的発展の過程がそれを要求するからである」と断定している(註17)。
 しかし、チェーホフの芝居『桜の園』では、現実の「桜の園」は実態を見せていない。もう5月で、桜の花は満開だが、明け方の冷え込みで、部屋の窓はしまったままだ。やがて、窓をあけたワーリャや、ガーエフ、ラネーフスカヤの目を通して、観客や読者は「桜の園」を見ることになる。チェーホフは、いつのまにか観客や読者の想像力に働きかけて、「桜の園」のイメージを描き上げる。
「なんと見事な桜の木でしょう」(ワーリャ)、「庭は1両真っ白だ。この長い並木道は……月夜に白く光るんだ」(ガーエフ)、「一面、一両に真っ白! おお、あたしの園!」「白い若木が傾いたの、女のようだったの」「すばらしいお庭! 白い花が沢山」(ラネーフスカヤ)というように、「桜の園」は真っ白である。ラネーフスカヤには、「亡くなったお母さまが、白い服を着て庭を歩いていらっしゃる」のが見える。白のイメージは、純潔、清らかさをあらわし、「清らかな時代」、「子ども時代」、「若々しく、幸福に輝く園」というイメージと結びついている。だが、登場人物の誰ひとり、現実の「桜の園」に絶ちがたい未練を抱いてはいないのである(註18)。

  「題は『桜の園』、4幕。第1幕では、窓から花咲く桜の木が、1両の真っ白い庭が見える。それに  白い服を着た婦人たちがいる。」(スタニスラフスキー宛、1903年2月5日付)

 『桜の園』が白いイメージで捉えられているではないか。小説『大草原』(1888年)にも、真っ白 い十字架、真っ白い桜の花のイメージが出ている。しかも、当時のロシアには、一面に桜の木ばかりで、満開の桜の花で真っ白い「桜の園」は、どこにも存在していなかったのである。
 チェーホフは、父祖伝来の土地とか、故郷とか、故国とかの固定観念に縛られていない。
 『森の精』のフルシチョーフのように、自然を弁証法的にとらえているのがチェーホフである。
 真っ白い「桜の園」は、われわれのめざす道標である。日本の植物も植えられていたヤルタのチェ ーホフの白い家は、土地の人たちから「白い別荘」と呼ばれていたのだ。『桜の固』の登場人物トロフィーモフのように、「ロシアじゅうが、われわれの庭ですよ。地球は広くて美しい。すばらしいところが沢山あります」とチェーホフは教えてくれるのである。
 今日ではすでに、日本の桜は、ソ連の百科事典にまで「サクラ」と記載され、「日本のシンボルの樹木」として紹介されている。いまでは、食用の実をつけないが、こよなく美しく、清らかな白い花を咲かす日本のサクラのイメージと、チェーホフの「桜の園」のイメージが重なりあってくる。
1926年に詩人マヤコフスキー(1893~1930)が、「日本の桜、ぼくが書ききれなかったすべてのもの」 に借りがあると宣言した(註19)。

  ぼくの債権者は
        ブロードウェイのネオンサイン
  あなたたち、
        バグダジの空、
  赤軍、
        日本の桜、
  ぼくが
        書ききれなかった
              すべてのもの。

 マヤコフスキーは、「日本の桜」についてまだ「書ききれなかった」と述べている。ちなみに、1914年に「2人のチェーホフ」という文章において、言葉を新しく創造する人、「言葉の解放のためにたたかった人のひとり」と言って、チェーホフを20世紀の前衛芸術家として位置づけたのもマヤコフスキーであった。
 チェーホフは、『桜の園』を書ききることにょって、今世紀の初頭に日本の植物、とくに、サクラにたいする借りを、マヤコフスキーよりもさきに返済していたのである。
(註17)(註12)参照。
(註18)拙稿「チェーホフの魔カー 『桜の園』とラネーフスカヤ夫人』(『ロシア・ソビエト潰劇研     究』1968年3月、第2号、ロシア・ソビエト演劇研究会発行)参照。
(註19〕マヤコフスキー作「財務監督官と詩を語る」(1926年)。小笠原豊科訳(飯塚書店版『マヤコ         フスキー全集』第2巻所収)がある。
 『チェーホフの中の日本』中本信幸 大和書房


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