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自省録 №19 [雑木林の四季]

第二章 人物月旦・戦後日本の政治家たち                                                                        

                                  元内閣総理大臣 中曽根康弘

佐藤政権の外交手腕
  佐藤内閣の一番大きな業績に、沖縄返還と日韓国交正常化がありますが、沖縄返還の思い出を記しておきます。
  沖縄問題については、三十歳前後の大人でも、どれほどの努力の積み重ねの上に、沖縄の本土復帰がなされたか、ほとんど知らないようです。政治家として、当時のことを若い人たちによく知っておいて欲しいと願うばかりです。
  佐藤さんは総理に就任早々、沖縄に行って、「沖縄の本土復帰が実現しない限り、戦後は終わらない」と発言しました。私は心底、この発言には感銘を受けたものです。度胸の据わった発言であり、政治家としての佐藤さんの見識には敬意さえ抱きました。
  「守りの佐藤」「待ちの佐藤」と言われた人でしたから、そうした勇断を振るった積極的な発言で、国民に訴えかけるとは予想ができなかった。私は大いに驚きました。
  それにしても、佐藤さんのこの難題への傾倒は、一方ならぬものがありました。文字通り一生懸命だったのです。「核抜き本土並み」というところが勝負どころでしたが、これについては、佐藤さんの密使を務めた若泉敬君(当時京都産業大学教授)が、米大統領特別補佐官のキッシンジャーといろいろ陰で交渉にあたります。
  佐藤さんという政治家は、実にいろいろな手を好んで使う人でした。表から行ったり、裏に回ったり、そうかと思うと、脇から覗いてみたり、そういうことが好きな人でした。キッシンジャーとの裏交渉に当たらせた若泉君の起用もそのひとつの例です。
  いろいろな選択肢を確保して、一つ一つトライしてみて、最終決断を自分で下す、というスタイルです。そうして「核抜き本土並み返還」にまで持っていったのは実にたいしたものでした。
  あまり目立ちませんが、佐藤さんのもう一つの功績は、日中国交回復の軌道を敷いたことです。
  あの頃、佐藤さんは、香港経由で中国に密使を送っていました。その仕事は、江鬮(えぞえ)真比古という人物に委ねられていました。佐藤さんは江鬮氏に、「おまえがいままで中国とやってきたことは次の時代の総理候補の三人に直接教えておけ」と命じていたようで、彼は田中角栄君と福田赳夫君、そして私に話をしてくれました。当時、大平正芳君は佐藤さんの眼中にはなかったのです。
  余談ですが、私が防衛庁長官に志願してなって以来、佐藤さんは私を非常に評価してくれるようになりました。将来の総理候補の一人として、考えてくれていた形跡があります。ご子息の佐藤信二さんや佐藤さんと親しかった浅利慶太氏からよくそういう話を聞きました。
  佐藤政権の間、私は運輸大臣、防衛庁長官、自民党総務会長を務めますが、私を総務会長につけたのは、まず格を上げておいて、宰相学、総裁学というものをそばで見ておれという意味があったのではないかと思うのです。
  江鬮真比古氏に話を戻せば、佐藤さんは「九七二年九月に周恩来宛の親書を彼に託したといいます。その内容は、日中国交正常化のために訪中して意見交換を行いたいというものだったようです。
  結局、それは周恩来に拒否されたようですが、台湾(中華民国)との関係を明確にしなければ受け入れられないというのが理由だったといいます。そこで佐藤さんは、先方の意向を尊重した別の親書をもう一度渡したともいいます。
  それが、翌年四月になってようやく周恩来の手元に届き、六月に江鬮氏は周恩来からの返書を受け取って佐藤さんに見せたが、時すでに遅し。佐藤さんは退陣を余儀なくされて、この件は立ち消えになったというのです。
  ところで、この江鬮真比古氏の素性についてはその後も手を尽くして調べましたが、よく分りません。終戦後、吉田茂さんのところに出入りするようになって、その関係で佐藤さんとも親しくなり中国情報を流していたようです。
  当時、国連での中国代表権問題が大詰めを迎えていた頃、佐藤さんはあえて時代の流れに逆行して、台湾への信義を優先させました。その時、私は総務会長になったばかりでしたが、「アルバニアが出した決議案が勝つ」と常々言っていました。アルバニア案とは、台湾と中国を入れ替えるという案です。ところが、佐藤さんは「いや、それはわからん」と言って聞かなかった。台湾が勝つかもしれないと佐藤さんは本気で思っていた感がありました。
  私は総務会長という立場上、「日本の国家としての運命に関する大事なポイントでもあるし、この際、政策を転換してはどうか」と、二度ほど提言したことがあります。佐藤さんは、「いや、そういうわけにはいかん。台湾を切り捨てることなど、信義の上からもそう簡単にできるものじゃない。それに、負けるとは限ってないよ」と話をされたものです。
  まもなく、一九七一年十月二十五日の国連総会で、中国の国連復帰が決定し、台湾が国連から脱退するという結果が出ます。台湾は負けたわけですが、しかし佐藤さんはやはり最後まで、たとえ損をしても台湾を助けよう、最後の一国になっても肩入れしようと心に決めていたのでしょう。佐藤さんにとっては、もはや勝敗の問題ではなかった。国家としての道義の問題だったのです。彼も、岸さん同様、長州人でした。彼のそうした心情を私は評価しています。
  中国との国交回復の千載一遇のチャンスを逃したことで、野党や世論からは「佐藤は栄作ではなく、無策である」と批判されていました。しかしその裏で、佐藤さんは江鬮真比古という人物を密使に立てて、前述したような布石を打っていたわけです。「待ちの佐藤」の意外に豪胆な一面を垣間見た気がしたものです。
  それだけに、佐藤さんは総理を辞任しなければならなかったことが無念だったでしょう。辞任からわずか三カ月後に、田中角栄君が訪中して日中国交回復の共同声明に調印します。しかし、国交樹立の下準備は佐藤時代に出来ていたともいえるわけです。
  佐藤さんのエピソードについては、後継者問題を書いて締めくくることにしましょう。
田中角栄君と福田赳夫君の間で佐藤後継をめぐる闘いが、始まるだろうということははっきりしていました。
  ポスト佐藤に備えて、私を福田君の方に引っ張り込んでおこうという思惑が佐藤さんにあったことは確かです。しかし不思議なことに、佐藤さんが陰で強く福田君をサポートしたかといえば、必ずしもそうではなかった。外遊先のカリフォルニアで、佐藤さんが田中君(当時通産大臣)と福田君(当時外務大臣)に会った時、福田君は、佐藤さんが田中君に引導を渡してくれるものと思っていたようです。しかし、佐藤さんはそうはしなかった。これは明らかに人事のミスでした。
  ほかにも、佐藤さんは人事で重大なミスを犯しています。第三次佐藤改造内閣の時、田中君を官房長官に捕まえ損なって、通産大臣に逃がしてしまったことです。佐藤政権の幹事長として力を養ってきた田中君を、官房長官として官邸に閉じ込めておかずに、野に放ってしまったからです。
  当時、懸案になっていた日米繊維交渉をまとめられるのは田中君をおいてほかにいなかったことは事実ですが、田中君の方でも「おれがまとめて見せる」と喧伝して通産大臣の座を獲得した。佐藤さんも田中君の辣腕に頼らざるを得なかったのです。
  しかし、これで福田君の優位はなくなってしまった。人事というのは恐ろしいものです。「人事の佐藤」といわれた人も、長期政権の疲れで最後には緻密さを欠くことになったのかもしれません。
  それにしても、時の流れは速いものでした。佐藤政権の幕開けの頃は、まだ河野一郎、池田勇人、大野伴睦など、自民党創設以来の大物がいましたが、佐藤内閣の終わる頃には、皆亡くなっていたのです。
  佐藤さんは孤独な人でした。奥様の佐藤寛子さんが書いておられます。夏休みに信介は一高生として帰ってくる、栄作は五高生として帰ってくる。親戚が集った座の中心になるのはいつも兄の信介の方で、栄作は裏の小川に行って一人しょんぼりしていた、かわいそうでならなかった、と。
  孤独でさびしがり屋で、人見知りする性格。その裏返しとしての倣岸さ。それらが複雑に織り成す佐藤栄作という独特のパーソナリティは、積み重ねた政治の実績ほどにはジャーナリズムからは評価されず、国民には親しまれなかったようです。
  佐藤家は儒学を重んじた家系なのか、宰相学というものをしっかりと身につけていました。私の知る総理大臣で、宰相学を本当に身につけていたのは岸信介、佐藤栄作のお二人だけです。安岡正篤氏などの国家主義者の影響があったのかもしれません。
  私は、政党人としてのあり方は河野一郎さんや松村謙三さんから教わりましたが、宰相学は佐藤栄作さんから教わったと思っています。
『自省録・歴史法廷の被告として』新潮社 抜粋 


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