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西北への旅人 №19 [雑木林の四季]

教育者の真髄

                                 元早稲田大学総長  奥島孝康

 坪内先生のことについて話を戻しますと、坪内先生については語るべきことがたくさんありますが、ここでは控えさせていただきます。坪内先生はたいへん教育に熱心な方であり、いまの先生方とはまるで違う根からの教育者であります。研究者としての実力、それはもう抜群の力を持ちながら、教育についてもものすごく熱心であられた。特に、授業は週に二〇から三〇時間教えられた。それは当時の学校の都合で余儀なくされた点もあるかと思いますが、しかし、早稲田中学の教頭になるや中学の教育に専心することはもちろんのこと、中学の教科書の編纂にも力を注ぐという真の教育者であります。そのようなことからお二人とも単なる多才な学者というだけではない優れた教育者としての共通点があるように思います。
 いまでもよく覚えているのは、坪内先生が修身の教科書の中で説かれた「知識を与えるより感銘を与えよ」「感銘を与えるより実践させよ」ということばであります。私はいま文部省の生涯学習審議会の副会長を務めていますが、最近、文部省で発表しました答申に、「自然体験・社会体験によって、子どもたちの教育をもう二度見直していこう」とありますが、この答申を取りまとめる座長を務めながら、議論の中で私はいつも坪内先生のこのことばを基本にして現在の教育のあり方について考えていました。坪内先生は、「知識を与えるより感銘を与えよ。感銘を与えるより実践させよ」という姿勢で、もうすでに明治の終わりごろから、中学生に対して話しかけておられたわけであります(もちろん当時の中学生は現在よりも年齢は高かったと思いますが)。いま、私たちが教育のあらゆる面で批判されたり、教育のあり方を問われていることは、知識つめこみ型の教育ではだめだということです。こういぅとき、私たちはすでに明治のころから坪内先生が授業に臨んで中学生に説かれていた、「知識より感銘を、感銘より実践を」という姿勢を想い起こすべきではないかと思っています。
 会津先生の授業はたいへん厳格であったようであります。もとより、私にはその内容はよくわかりませんが、一期一会、一回一回の授業を厳格に、しかも大切にされたようであります。受講生以外の学生は絶対に入れない、居たら出て行けというふうに厳しかった。どんなに自分のお気に入りで助手のように使っている学生であっても、肘をついているだけでも一喝されたほどの厳しさであったと言われています。この会津先生の厳しさについてはいろんな方が書いておられ、私も読ませてもらっていますが、金田弘先生の『会津八一の眼光』(一九九二年、春秋社)などを読んでみますと、金田先生はある意味ではたいへんな被害者であったようであります。しかし、この方は、いつも怒鳴られながら、その厳しさをまともに受けながら、なおかつ逆に先生に愛着を覚え、いつのまにか先生との距離を縮めていくという、そういう稀有の体験をなされた方だと思います。
 いまの学生たちを見てみますと、怒鳴られたら、もう近づいてこないことが多いのではないでしょうか。先生も気を使って授業をやっている状態です。たとえば、私が学生の評価を受けた中に、いろいろありましたが、何々先生の授業は私語が多かったが、先生の授業には私語がなかった点がよかったという評価がありました。こんなことは当たり前のことであります。
 私は私語をしたり、新聞を読んでいる学生にはすぐ出て行けと言います。大学の授業であればむしろ当然の注意だといわねばなりません。それにもかかわらず、そういう注意さえもしない授業がなされている現状は悲しむべきことです。私語は一般的なことといろんなところで書かれていますが、早稲田でいいますと法学部では私語は見られません。他学部ではわかりませんが、ある学部では私語ばかりで、授業中は学生の私語で先生の話が聞こえないそうです。そういう状態にめげずに授業をやっている先生も偉いと思いますが、そういう状態を放置している先生自身が問題だと思います。そういうことが普通のこととなると、「怒鳴る」ということはなかなかたいへんなことであります。たんに怒鳴るということは誰にもできる。しかし、怒鳴ることによってさらに親近感を強め、師弟関係を緊密にするということができて初めて教育といえるのです。それは、学者としての実力だけではなく、学者としての人間性、そういうものが備わっていないとできないことだと思います。
 かつて、西田哲学というものを私もかじったことがあります。いまでは何も覚えてはいませんが、若いときはそういうものをかじってみたいものです。ただ、そのころ読んだ先生の随筆の中の一節だけ覚えています。西田先生はこう言っています。「私の人生というものは非常に単純であった。前半は黒板に向かって座っていた。後半は黒板を背にして立っていた。つまり、黒板を前にして一回転したのが私の人生だった」と。実にすばらしいことばですね。こういう哲学でありましたから、学生たちはほとんどわからなかったにもかかわらず、学生たちは魅せられたのです。これが学問だと私は思うし、これが師弟の間の魂と魂がぶつかり合う本当の教育だと思っているわけであります。私もそういう教育をやらなければと心がけているわけでありますが、なかなかそうはいきません。
 会津先生の厳しさというものは、信頼を見分ける眼力であり、このすさまじい眼力が学生を捉えたのではないでしょうか。あらゆる物事に対応できる、向き合うことのできる眼を持った人というものは、長い人生でも一人に出合うかどうかというべきです。これは稀な眼力だといわざるをえません。
 そういう眼力をおもちの先生であるからこそ、早稲田中学の子どもたちに慕われ、大学に移り、大学生に向き合うと魂の震えるような恐怖を覚えさせた。そして、学問というものが何であるかということを知らしめることができた。そういう本物の教育者であった会津先生のような方こそ大学者と呼ぶにふさわしい方というべきです。
 お二人は、違った形ではありますが、教育者としての資質というものがたいへん似ていると思います。そういうふうに、熱意のある教育者として、あるいは、独創性の強い研究者として共通したお二人の間から、私は二つのテーマを見つけ出すことができるのではないかと思うわけであります。一つは行動力であり、もう一つ大衆性であります。
 坪内先生について考えてみますと、先生は単なる文学者というだけではなく実作者であります。シェイクスピアの翻訳を進めながら、演劇の脚本をどんどん書いておられます。なんとついには子ども向けの脚本まで書かれています。また、倫理を中心とした教科書や国語の教科書を作られています。
 また、自分で演劇協会を作って演劇の普及に努められています。あるいは教室では、歌舞伎の声色を使ってハムレットの上演を試みたり、たいへんな行動力をおもちでした。
 会津八一先生は、大正八年ごろから年数回も奈良へ通いつめ、本物に向かい合って、ついには会津美術史学というものを生み出されました。また、他方では、当時はおそらく学問の対象とはならなかったであろう明器といわれる中国漢唐時代にかけての副葬品としての焼き物をたくさん集められた。その一つ一つは価格的には安物でありましたが、会津先生の手にかかると学問上たいへん貴重なものとなったわけであります。それらは決して芸術品あるいは宝石のような価値のあるものではなく、いちばん大衆的なものであり、時代的背景や当時の文化的なレベルを知る上でたいへん貴重なものでありましたが、当時の学者はあまり手をつけなかったものでありました。
 お二人とも、このような研究の成果、集められた数々の貴重な資料等をすべて大学に寄贈されておられます。単に学問的に偉大だっただけではなくその学問というものが大衆性をもっており、その行動力を大学教育に向けられ、多くの若者を感化された優れた教育者であり、自分自身についてはまるで名利を求められなかった方々でありました。私たちがお二人の名を冠した二つの博物館によりその志をいつまでも伝えようとしているのは、それあるがためであります。

『西北への旅人』成文堂

 


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