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自省録 №18 [雑木林の四季]

第二章 人物月旦・戦後日本の政治家たち⑨                                                                         

                                    元内閣総理大臣  中曽根康弘

佐藤栄作 - 沖縄返還に賭けた長州型政治家
  このようにして十年たらずの間、私は何の役職にもつかなかった。私のところに割り当てが来ると、桜内義雄君や稲葉修君、大石武一君などに渡すというように、全部友達に渡してしまった。
  特に焦りは感じていませんでした。池田・佐藤時代に、同期の田中角栄君や当選回数の少ない福田赳夫君、大平正芳君が出てきていましたが、なんといっても私が一番若かった。政治家連中の世論調査でも田中角栄、中曽根康弘がいつも上位を占めていたと思います。
  しかし、定石を踏まない私の独自路線も、第二次佐藤内閣(一九六七年十一月)で終りを迎えます。運輸大臣に就任することになるのです。雌伏十年からの戦線復帰です。
  ここで、中曽根派の結成について書いておきます。
  河野一郎さんは、一九六四年十一月に池田さんの後を佐藤さんと争って負け、佐藤さんからは冷遇されていました。翌年の内閣改造で、河野派の園田直(すなお)君と森清君の入閣を推薦しますが、佐藤さんはこれを蹴って、河野さんの無任所大臣と中村梅吉さんの文部大臣就任に固執しました。河野さんを取り込んで、しかも河野派の分裂も考えたらしい。
  「人事の佐藤」と言われただけあるたいへんな策士ぶりです。
  ところが、それを蹴飛ばした河野さんは一カ月後に亡くなってしまいます。一九六五年の第七回参議院選挙が終わった四日後の七月八日のことでした。全国遊説から帰って腹部動脈瘤破裂を起こし、あっという間に河野さんは亡くなってしまった。急遽、河野派の長老格で河野さんの親戚にもあたる重政誠之氏を代表幹事にして、私や森清、園田直、桜内義雄君らの補佐するかたちで集団指導体制をとることになったのです。
  しかし、すぐ翌年には佐藤さんの再選問題に引っかかってしまいます。
  一九六六年十二月、佐藤栄作さんの総裁再選をめぐり、春秋会(河野派)は、抜き差しならぬ内部対立に直面します。佐藤につくか、あくまで反佐藤か、この局面で河野派は分裂したのです。重政誠之氏や森清、園田直君ら十八人が佐藤支持で主流派に流れ、河野派の活路を開こうとした。
  それに対し、私や野田武夫、中村梅吉、桜内義雄、山中貞則、稲葉修君などは、河野さんの遺志をついで反佐藤の立場を貫こうとします。それで、藤山愛一郎さんを支援することにしたのです。
  もちろん、藤山さんでは負けるとは思っていました。しかし、大義名分があり、主義主張が鮮明であれば、負け戦に加担することも政治にはあるのです。時には、華々しい感じさえそこには備わるものなのです。
  河野さんが無念の死を遂げたので、「さあ、すぐに路線変更だ。佐藤を支持しよう」とは行きません。ここは頑固者で行こうと、まなじりを決したわけです。
  それが、新政同志会、すなわち中曽根派の発足でした。私が代表に推された。総勢二十六人。中村梅吉、野田武夫、大石武二、唐沢俊樹、倉成正、蔵内修治、八木徹雄、天野光晴、松山千恵子、渡辺美智雄、木部佳昭、佐藤孝行、木村武千代、砂田重民、森下元晴、大石八治、大竹太郎、湊徹郎、坂村吉正、田川誠一、木村剛輔、四宮久吉君らがいました。私は四十八歳。史上最年少の派閥リーダーでした。
  そしてある晩、一本の電話が入りました。声の主は保利茂官房長官。「佐藤総理があなたに会いたがっている」なんとも単刀直入です。
  軽井沢では、佐藤さんの別荘と私の父の別荘は川を隔てて向かい同士でした。永田町では喧嘩していても、軽井沢では隣組というわけで、ときどき近くでとれた梨をこちらから届けたり、向こうは羊羹を返してきたりと、そんな交流はあったのです。
  佐藤政権ができて二年後の一九六六年十二月、総裁選が行なわれますが、磐石の態勢で臨んだ佐藤さんが、誰もが予想したように勝利を収める。一方、前述のように、私は藤山愛一郎さんを推して、反佐藤で闘っていましたから、党内では野党の立場です。
  ですから、保利官房長官の電話には私は奇妙な印象を抱きました。どうして私に会いたいのか、と。
  しばらくして、今度は保利さんは私を訪ねてやってきました。
  「ぜひ、佐藤に会ってくれ」
  「保利さん、おれは党内野党で今までやってきているんだから、会う必要はないじゃないか」
  「いや、佐藤がどうしても会いたいことがあるんだ」
  はじめ私が色よい返事をしなかったのは、総裁選で藤山愛一郎氏を担いで佐藤さんとはやりあったばかりでしたから、なんとなくばつが悪いところがあったからです。しかし、保利さんにここまで言われた以上、「それなら、会ってもいいですよ」と応じざるを得なくなったのです。佐藤さんにすぐ話が通じたのでしょう。数日後、築地で財界人と勉強会をやっている席に、また保利さんから電話がかかります。「佐藤さんが、自宅で待っている」と言うのです。
  その足で、夜の九時過ぎに佐藤邸に行くと、驚いたことに、佐藤さんは羽織袴で玄関で迎えてくれました。
  二階に上がって向かい合い、いろいろ話を始めましたが、佐藤さんは寡黙な人です。そのうち肝心な話を始めるのだろうと、ゆっくり構えていると、やがて居住まいを正して、佐藤さんはこう切り出します。
  「沖縄返還には命がけで取り組みたい。ついてはあなたに助けて欲しい。これさえできれば総理などいつ辞めてもいい。沖縄をやるためには、少なくとも保守陣営は一体にならんとまずい。アメリカに対しても力を示す必要があるし、挙党一致の態勢を示す必要がある。だから、助けて欲しい」
  「ほんとうに、やるつもりですか」
  「ほんとにやるつもりなんだ。だから、あんたにこうして来てもらって、おれは会っている」
  なるほど、羽織袴でいるところを見ると、志を示したのでしょう。「あなたが本気になってやると言うのなら、これは国家的問題です。私は野にあっても協力する」と言って別れました。
  あの晩の印象は今も鮮明です。はじめて佐藤栄作という人物が見えた気がしました。
  「黒佐藤」とか「正直にものを言わない二重底」とか言われていましたが、根は純情で不器用な人でした。
  彼は長州人で、伊藤博文、山県有朋といった長州型の政治的素養の体系を身につけていたと思います。これが、佐藤さんを官僚出身でありながら、単に官僚肌にとどまらない政治家にしていました。七年半という、あれだけの長期政権をやってのけた裏には、山県有朋や伊藤博文のように人使いが上手かったこと、状況適応主義で時代に合わせて進みながら時期を見計らって、適宜、問題を設定して勝負をかける勇猛さも持ち合わせていた。そこから、沖縄返還も日韓国交回復も生まれたのです。

  その後の改造内閣で、私は運輸大臣に指名されることになりました。私は野田武夫君を推薦したのですが、佐藤さんは頑として聞き入れなかったのです。
  この時はずいぶんと仲間とも相談しましたが、派閥をまとめていくには、やはり大臣ぐらいやっておかないといけないだろうし、派閥のメンバーを政務次官にしたり、委員長にしたり、ポストを配給する必要もある。そうしなければ、派閥などそう持つものではない。また、ある程度お金も集める必要もあった。仲間からあがる声は、どれももっともな正論でした。
  それに、三浦甲子二君との約束の十年にも近づいていたので、このあたりでいいかと思い、運輸大臣を引き受けることにしたのです。三浦君には電話で連絡しましたが、彼も「いいよ」と認めてくれました。
  しかし運輸大臣になってみると、これがすこぶる評判が悪い。「風見鶏」と言われたわけです。藤山愛一郎を応援して佐藤栄作を批判していたのに、大臣をもらって佐藤と一緒になってと、党内主流とジャーナリズムの合作で、そこら中で痛打の声です。また左翼陣営、保守陣営の両方からも「変節漠」「風見鶏」と非難されました。                      
  しかし、そんなことは気にもとめず「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」と嘯(うそぶ)いていました。はっきりと、将来、総理を目指すための派閥戦略をもっていたつもりです。派閥のためにポストも確保して、政務次官五人、副幹事長、政調副会長などのポストに人材を送り込むこともできたのですから、何を憂える必要があるでしょう。実際、現実に重要な沖縄問題があったのです。
『自省録・歴史法廷の被告として』新潮社 抜粋 


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